有限会社Ayleeds社長日記。継接ぎだらけですが、世界一周旅行もやってます。

プチ社長日記:『インド〜パキスタン#2(陸路越境)』の話

さて、翌日はいよいよパキスタン国境超えである。
インド・パキスタンの国境事情は変化しやすく、なかなか最新の情報を入手しにくいのが実情だ。
特にパキスタン側は『地球の歩き方』が2007年から更新が停止していることもあって、情報が不足しがちだ。(※)

結論から言うと、「パキスタン側・インド側双方とも国境までのアクセスに難があるも、現時点で越境には何の問題も無い」ということになる。

※なにかと重宝する『地球の歩き方』であるが流石に8年たつと情報の陳腐化は避けられなくて、例えば物価が2倍以上になっていたり、この宿を当たってみようと思ったら豪快に潰れていたりする。
ずっとデフレに苦しんでいる我らの感覚では8年で物価が倍というのは考えづらく、最初はボラれてはかなわんと炎の交渉を続けていたが、大手長距離バスの値段が2倍になっていることを知り、まぁ、そういうものなのかと納得するまで時間がかかった。最新情報は(英語だが)lonely planetがお勧めである。


『地球の歩き方』では国境審査の職員が酷いと書いてあったが、私の場合では、パキスタン側の入国審査官は(2人いたが2人とも)女性であった。イスラーム世界で女性の職員というのは珍しいので、その辺は国も気を遣ってくれているのかもしれない。
尤も、陸路で入国する日本人は極めて少ないらしく、単純な好奇の視線にさらされるのは仕方ない。
私としても、審査に当たって多少は身構えていたのであるが、審査官の最初の一言が『あなた、髪の毛跳ねてるわよ』である。そこかよ、放っておいていただきたい、という気持ちを堪えつつ、相手がお役人なので一つ一つ丁寧に答えていく。が、その後も『あら、このスタンプどこの?変わってるわね。』『あ、それコソヴォです。国の形(がスタンプに彫られている)。』とか入国に関係ないやりとりがただひたすら続く。そのうち、隣のカウンターの女性審査官も身を乗り出しての雑談である。

一点、注意すべきは宿泊先だけ(どっか適当なのの住所・電話番号でよい)は決めて置いた方がよい。一応、夜間の外国人外出は制限されているようなので、そこだけ押さえておけばまず大丈夫と思われる。

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【パキスタン側国境ゲート】

その他にも、何故かセキュリティーエリアに両替商がおり、レートは決して良くは無いものの、インドルピーを持ってても仕方ない多数の人間にとっては便利であるし(パキスタン側の方がレートは良かった)、パキスタン側にも税関抜けて少し歩いたところ、なぜかサルが飼われている檻を過ぎて右側には冷房の効いたブースにATMもあるので、入国に関する不安は一瞬で解消する。(それにしても何で国境でサルを飼ってるのかは謎。)

問題は国境から最寄りの街までのアクセスである。インド側は、何だかんだ言ってリクシャーが常に待機しているので問題ない。ボラれてるのかもしれないが、私の場合は250ルピーで片道貸し切りだった。相当な距離があるので、タクシーかリクシャーでないとまずアムリトサルまでは行けないので必要な出費と思っている。
問題はパキスタン側で、税関出ると遊園地内のバスみたいな可愛い乗り物がセキュリティーエリア外500mくらいまで連れて行ってくれる。因みにそこの税関のおっさんやポーターのおっさんもオモロイ面々なので、待ち時間は苦にならない。

送ってはくれるものの、そこからバスが直で出ていないらしく(近くの小さい街、ワガーからは出ているようだ)、誰に聞いても『7kmほどあるけば(ワガーで)バスがつかまるよ』との回答である。最初歩き始めたが、何しろ炎天下なので体力が著しく消耗する。結局、戻ってきてしまった。最初は不在だったリクシャーもその頃には数台が客待ちしていたので、最安値(350パキスタンルピー(1パキスタンルピー≒1.2円))を提示した隻眼運転手のリクシャーでラホール駅まで行くことにした。

因みに、パキスタン側の税関のおっさんに、『日本人て、どれくらいここ通るの?この1週間に他に何人いた?』と聞くと『いや、全然通らない。おまえだけだ』との回答であった。。。

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ラホール駅では砂埃が舞っていた。いや、砂嵐と言った方がいいかもしれない。ラホールにはまた戻ってくるので、とりあえず北上してラーワルピンディーに向かうことにする。
本来、この手の長距離列車は、町中にある予約オフィスでチケットをとる方が便利なのだが、時間の節約で窓口の姉さん(ここも女性だった)と筆談で意思を伝え、切符を買ってすぐの列車に乗ることができた。
(ラーワル)ピンディーまでは4時間とガイドブックに記載されていたが、やはりそれは特急の話で、結局10時間かかってしまった。列車も最初は激込みであったが、駅で出会ったRana兄弟に助けられ、席にありついて快適に過ごすことができた。

車窓の景色は、都市郊外では貧しいバラックが目立ったが、田舎の風景はのどかそのものである。車両もボロいものの味がある。特に信号機が腕木信号機であり、信号所も随所にあってノスタルジックな気分にさせる。

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【腕木信号機に信号所】

結局、一日で一気にピンディーにまで来た。因みに(ラーワル)ピンディーとはパキスタンの首都イスラマバードのすぐ近郊(15km)である。イスラマバードはパキスタン独立後に急造した街なので、官庁街といった趣なのに対し、ピンディーは古くからある街なので鉄道その他の施設はピンディーがまだ主役である。
であるから、一国の首都(の郊外の街)として煌びやかさを期待していたのだが、それは完全に裏切られた。

まず、駅やその周辺が異様に暗いのである。街灯はおろか、信号機も点いていない。建物も半分は廃墟で、残りの建物では発電機で灯りをともし、食堂などが開かれている。
パキスタンはイスラームなので、基本的に酒類が販売されない。夜明けのアザーンとあいまって、それが夜を早くしているのかもしれないが、いくら何でも暗すぎる。
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【安宿街】

薄暗い食堂で食事中のおじさんに道をきいたり、手元の地図を頼りに、とにかく街の中心部に向かう。
流石に街の中心部は街頭や信号機がついている。停電というより節電に近いのかもしれない。
宿を探すが、ガイドブックにあった最初の宿は潰れていた(※)、その後もいろいろ当たったがどれも満室である。すっかり曜日の感覚をなくしていたが土曜日であったのを思い出した。地方から出てきた人間で宿が塞がっているのであろうか?
とにかくいろいろ当たったが、どれも潰れていたり満室だったりで埒があかず、終いには街の反対側まで出てしまった。
遠くに見える高級ホテルのそばに中級ホテルがあるらしいので、それに当たって、泊まれなかったら野宿しよう、そう決めて向かう。とにかく強烈な睡魔に襲われ、もうどうでもよくなっていた。

結局、その中級ホテルで部屋をみつけ、不本意ながら割高な値段で宿泊することにした。シャワールームは排水が悪く虫の死骸が浮きまくって使えたものではなかったが、ベッドで寝られるのと朝食がついているのが有難かった。
とにかく飲み物を調達しようと外出しようとしたが、ホテルの従業員や警備に制止される。外国人の夜間外出は禁止されているとの旨であった。
のどが渇いていはいたが、とにかく眠いのでひたすら眠る。

※エクスペディアなどもパキスタンの宿は大都市のハイクラスなものしか登録されていない。
ネパールでは350円/泊でも登録されているので隔世の感があるが、私たちもほんの15年ほど前まで歩いて宿を探し回っていたので、寧ろ楽しむしかない。

プチ社長日記:『インド〜パキスタン#1(インド再訪)』の話

イスラエルに行ってきたばかりだが、その後、インド、パキスタン方面にまた出かけてきた。
なんで一旦帰ってきたかと言うと、月末・月初の仕事と会津に遊びに行く予定があったからで、これはこれで2泊3日ずーっと飲み続けの楽しいイベントであるので、世界のどこにいようと帰国する訳である。
いや、3か月分くらい3日で飲んだね。飲んでない時間でお皿とか焼き物焼いてたからね。

で、日本の夏を堪能した後は、ビザもおりたので再びのインド、ということにあいなった。

余談だが、他の旅行者に聞いた話だと、『(旅行者にとって)世界3大ウザい国』と言われているのが(北部)インド、モロッコ、エジプトだそうである。あ〜、なんか解る気がするな。エジプト知らんけど。

物乞も最初は『可哀想だな』と同情こそすれ、あまりにも多くの子供から当たり前のように手を差し出されると、その内まるで気にならなくなる。紛争なのか事故なのか、下肢が切断されてお手製スケートボードに乗ってやってくる、例えは悪いがザクタンクみたいな人も大勢いるので、五体満足な乞食くらいでは何とも思わなくなるのである。
(10年前のフィリピンでは、母親が子供に乞食をさせる為に、同情をひくよう子供の手足を切断するという話が横行していた。そのパターンでないことを祈る。)
そういう状況なので、現地にいるときは『うへぇ』と最初は思う。特に感覚が麻痺するまでは。
でも、一旦その麻痺の感覚を知ってしまうと、帰国後暫くしたらあら不思議、『何かまた行きたいな〜』と思わせる不思議な地である。この点は同意される方も多いのではないだろうか。

その理由を考えてみたのだが、一言では言い表せないが「『インド的な何か』はインドでしか見られないから」だと思う。ヨーロッパのある国で感じる楽しさは、他のヨーロッパ諸国で代替可能な部分が多い。それはキリスト教的な価値観が一貫しているからだと私は思う。インドは何だかんだ言ってヒンドゥーの国であり、『インド的な何か』が『ヒンドゥー的な何か』だとしたら、この規模だとインドでしか味わえないのは致し方無いのかもしれない。
まぁ、その『ヒンドゥー的な何か』がまた難しいのであろうが。(多神教の持つ、いい加減さとでも言いましょうか。。。)

昨年はコルカタ〜デリーを中心に、選挙でゴタゴタしてる中のネパール国境越えが思い出深かったが、今回はデリーから西進し、アムリトサルから陸路国境を越え、パキスタンのカラチまで行くのが当座の目標である。
時間があればクェッタからイランのザヘダーンまで行きたかったのだが、イランのビザ取得を待てずの出国となってしまった。月末・月初にいろいろ作業が入るので、クライアント先に貼りついていない時でも、月末月初のタイミングでは日本にいる必要があるのですわ。

最初は煩わしく思っていたが、この区切りがないとダラダラ旅を続けてしまうことが容易に予想できるようになってからは、ありがたい区切りと受け止めている。
「あれも見たい、これも見たい」と旅の好奇心を維持し続けるのは、これはこれで結構パワーがいるのである。いや、ホント。


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デリー到着は昼頃であり、2回目ということもあって難なく宿に転がり込むことができた。あいにく前回の宿には泊まれなかったので、ニューデリー駅近くの宿にした。
アムリトサル行きの列車は2日後なので、デリーではビールなど飲んでダラダラ過ごす。デリーに行ったことのある日本人なら大概は顔を出すと思われるインディアン・クラブ・カフェに行き、一人旅行再開を祝う。窓の下を大勢の人々が行きかい、ときおり牛が通り過ぎるのを見ているのは、意外に飽きないものだ。
ただ、旅行者は少なく、他のバックパッカー御用達の場所に顔を出すも、どこも閑散としていた。

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【デリーに行かれた方なら、見覚えある方も多い筈】

2日経ち、アムリトサル行きの列車は朝の6時発であった。どうやら深夜3時発もあるらしいのだが、私が窓口の人に聞いた時は何も言われなかったので空きがなかったのかもしれない。私としては2等車でもよかったのだが。。。

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【早朝のニューデリー駅。左端が目当ての列車】

結局、座席ではなくてデッキでドアを全開にして車窓を楽しんでいたのであるが、同じ北部インドと言っても、パトナー周辺のビハール州と今見ているパンジャーブ州では景色がかなり異なるように思えた。
こちらも水田が多いが、区画が整備されており、一区画の面積が大きいようだ。日本の田園風景に似ており、『ムヒ』とか『727化粧品』の立て看でもあれば、まんまそれと見まがうレベルである。
因みにビハール州はインドで最も貧しいエリアである。

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【ドア越しの農村風景】


アムリトサルには定刻の10分遅れで到着。10分しか遅れないとは僥倖と言えよう。インドは最近は予約のコンピュータ化などで鉄道インフラの整備が著しい。まぁ、新幹線を作るという話もあるから当然なのだが。
従い、無茶苦茶遅れることは最近は少ないようだ。(インドなどより東欧の方が経験的には遅延が酷い。)

駅に降り立ち、早速リキシャーワーラー(リキシャの運転手)と交渉する。安く纏めたおっさんのところへ行くとサイクルリキシャーであった。まぁいいやと乗ったが、異常に遅い。おまけに「お釣りはあるよな?」と事前に確認したにも関わらず、降車時に釣りがないとほざくので、「ふざけんな。お前、誰かから釣りを10分以内に借りて来い」と追い立てる。あぁインドだな、と思う瞬間だ。笑顔でごまかされないように狂犬のように噛みつく。

慣れるまでは、とにかく交渉に疲れるのがインドなので、短い距離だと歩いて済ましてしまう。だが、ちょっと先を急いでいる事情があったのだ。
アムリトサル市中についたのが15時頃だった。スィク教聖地の黄金寺院を見学する。
一通り見終わったのが16時前である。急いでいたのは、できれば今日中に国境を越えようと思っていたからである。
客引きのいないところまで歩いてからリキシャーを捕まえ、国境に向かう。着いたのが17時まえであったが、すでに国境は封鎖されていた。(後で見ると16時までだった)
ただ、このアムリトサル(パキスタン側はラホール)国境では、18時頃に両国の国旗を降ろし、閉鎖のセレモニーを行うのが有名である。本当はパキスタン側に渡ってパキスタン側から見たかったのであるが、間に合わなかったので仕方がない。インド側で鑑賞(観戦?)する。インド・パキスタン双方に観客席があって両国の国威昂揚の場となっての大盛り上がりである。

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【インド側で盛り上がる人々】

結局、鑑賞後は再びアムリトサルに戻り、夜のライトアップされた黄金寺院を再び見学に行く。
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【黄金寺院】

スィク教は、インドでは少数派であるが、ターバンをして銀の腕輪を嵌め、腰には短剣(現代では模造刀)と言った、割と『ザ・インド人』としてのイメージを抱かれやすい感じがしている。おそらく、彼らは宗教的に勤労を奨励しており、結果、商売で成功している者が多く(宿の主人がスィク教徒、というのはよくあるパターン)、影響力としては確固たる地位を築いているからだと思う。
価格交渉においては、基本的に提示してくる価格は高めで、タフ・ネゴシエーションとなるが、コスいことはしない、お金にクリーンなイメージを私も持っている(無論、全員がそうという訳ではないだろうが)。
宗教施設であるから、敬意をもって臨めば相手も歓待してくれる。施設内では食事が振る舞われ(不味いけど)、履物を無料で預かってくれる場所では何故かマドレーヌを貰ったりもした。

基本的に、教会などでは被り物を脱ぐのは当然だ。でも、ユダヤ教ではキッパという帽子を被るし、スィク教ではターバン(旅行者はバンダナとかでOK)を巻くのが決まりだ。この辺は割と厳格であり、日本人はこういうマナーに無頓着なので注意が必要だ(レストランなどで帽子をかぶったまま飯を食う日本人などをみるとゲンナリする)。
裏を返せば、キチンと敬意を示せば、いろいろとお得なこともある。

プチ社長日記:『イスラエル漫遊記#3』の話

エルサレム2日目も早起きである。朝イチで神殿エリアに見学に行く。お目当ては『岩のドーム』だ。
この場所もユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地なのであるが、今はムスリムしか建物内部には入れないことになっている。
私は例によってジャージにパンジャービ(寝起きだから)、サンダルという出で立ちである。そして手ぶら。かつてトルコでムスリムに間違われることがしばしばあり、モスクのムスリム専用入口に何度か案内された私ではあるが、ここは流石に厳格である。
周囲に誰もいないので試しに『入っちゃダメっすか?』と聞いてみたが、『禁じられてるから、ダメだよ』とやんわり諭される。
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【岩のドーム】

因みに、イランではモスクの敷地内は裸足が鉄則である。サンダルとか履いてると音速で怒られる。
イスラムに敬意を表してドーム周囲の敷地内を裸足でブラブラしてたのだが、今度はイスラエル側の警備員(というか、警備兵)が飛んできて、『何か宗教的な意味があるのか!?』などと問うてくる。
そういう訳ではないと釈明をし、言われるままにサンダルを履くが、その後も『何か祈祷をしているのか』などと聞いてくる。
敷地内では朝の祈りであろうか、小学生たちが『アッラーフ アクバル!』(神は偉大なり!)を連呼していたので大丈夫だと思っていたのだが、どうやらここは『観光地』であって『祈りの場』ではないということだろうか?
確かに入り口の看板に『あからさまな宗教的振る舞いはするな』と書いてあったのを思い出した。
パンジャービがアラブのクルタと似ているのも裏目に出たようだ。『心配させて申し訳ないが、宗教的なことをしにきたのではなく、美しい建築を見に来たのだ』と説明し、相手も『そうか』と返事をしたが、どうやらまだ疑っているらしい。
あまり余計なことを言うと墓穴を掘りそうだったので、ただひたすらニコニコして切り抜ける。
もっとも、朝イチで入ったので周囲に他の観光客がほとんどいないせいもあったのかもしれない。私にだけ厳しい訳ではなく、短パンで入ってきたヨーロッパ人と思しき二人も速攻で注意されていた。
本来キリスト教もそうなのだが、イスラムでは肌の露出を特に嫌う。せっかく入ったのに、追い返されるのかなと心配で見ていたが、彼らはケープのようなものを腰に巻くという荒技で『短パン・バリデーション』をかいくぐっていた。

宿に戻って朝食をとり、旧市街北側のサマルカンド門からアラブバスに乗り、ベツレヘムへ向かう。
パレスチナ自治区ではあるが、キリスト生誕の観光地でもあり、外務省安全ページで見る限り、治安は悪くないようだ。
バスで1時間ほどでチェックポイントにつく。歩いてチェックポイントを通過するのであるが、やはり目にするとパレスチナ分断政策の凄まじさを思い知る。
エルサレムから「バスで1時間ほど」と書いたように、イスラエル領土だけで無く、イスラエル領域外の入植地を囲む形で建設が進められている。つまり、第1次中東戦争の停戦ラインでパレスチナ側とされた領域も壁の内部に取り込まれており、事実上の領土拡大を進めている。

この分離壁であるが、中東版万里の長城とでもいうべきか、遥か彼方まで壁が連なっているので圧倒される。しかもベルリンの壁よりも遥かに高い。随所にある管理棟が、まるで刑務所の中にいるような気分にさせる。
因みにこの分離壁、イスラエル側は「壁じゃなくてフェンス(柵)でござる」と主張しているが、「んな訳ねぇだろ」という言葉しか出ない、めちゃくちゃ立派な壁である。
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【分離壁(イスラエル側):見難いが写真右端の方まで壁は続く】

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【チェックポイント:パレスチナに出る時は、この金網の通路を通る】

もっとも、チェックポイントと言っても手ぶら同然の私は難なく出入りできた。特にパレスチナに入るときはノーチェックに等しい。
パレスチナ側に入るや否やタクシー運転手が群がってきた。正直、街の中央まで何キロあるかも調べずにきたのであるが、すでにチェックポイントがガイドブックの地図の圏外であることから3キロは固かった。
あまりにもしつこいドライバーが10NISで良いと言ってきたので(1キロ=11NISなのでありえない)試しに車に乗ってみると壁のペイントを見に行こうと激しく誘ってきた。
まぁ、こんなことだろうとは思っていたが、私は街に出たかったので、15NISから交渉開始したが、結局まとまらず車を降りた。
今度は違うタクシーの運転手と交渉したが、今度も10NISで良いといってきた。しかし、本来5人乗れる車だとか何とか言っている。
どうやら相乗り前提で、その分、私が負担しろみたいなノリである。条件と値段がはっきり定まらないうちに走り出したので、飛び降りる。
40過ぎのおっさんがするような事ではないが、金額の多寡よりもだまそうとする気持ちが嫌なのだ。
後ろから『ミスター、ミスター!30NIS!』などと叫んでくるが、さすがに振り返る気もない。

憮然としていたが、ふと駐車場脇にスイカを食べている3人組がいた。なんか信じられないくらいデカいスイカである。1切れ分けてくれたのでありがたく一緒にムシャムシャやってると、さらにもう1切れ、さらにもう1つどうだ?とドンドン勧めてくる。
さすがに食いきれないと辞退したが、旅行者に優しい彼らと話して、タクシーの値段交渉で荒んだ気持ちも和らいできた。

スイカを喰って元気が出たので、歩いて向かうことにする。

いささか遠回りしてしまったが、壁に描かれたパレスチナ人の落書きをみながら進むのは存外、楽しかった。
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【分離壁(パレスチナ側)】

こちらは物価がイスラエル側より少し安く、コーラ1缶3NISである。イスラエル側だと5NIS。500mlペットボトルだと旧市街では8NIS、新市街のスーパーなら7NIS弱で買える。
1NIS≒30円なので、イスラエル側だと日本より高いが、パレスチナ側だと安い感じだ。
因みにイスラエル側のマクドナルドだと、一番小さなセットで40NIS(1200円)くらいするので堪らない。
普通に食べると1800円くらいするのである。まぁ、wifi欲しさに入ってしまうのが悲しいところではあるが。

ようやく辿り着いたので、ベツレヘムの降誕教会を見学する。文字通りキリストが生まれた場所の教会である。
私は幼稚園がミッション系だったので(照)、ミサなどでは馬小屋で生まれて3博士がひれ伏すような絵を見慣れていた。しかしいざその場所に来てみると、思い切り地下なのである。
尤も、マリアがナザレで受胎告知を受け、ナザレで育つキリストが何故にベツレヘムに生まれたかということについては、若干あやしいとのこと。
ヨセフが人口調査のためにベツレヘムに来ていたとのことだが。。。

降誕教会の他の場所は改修工事中だったこともあり、すぐそばにある、マリアがキリストに授乳していた時に奇跡が起こったとかいう教会も見学すると、特にみるべきものも残らない小さな街である。
ただ、パレスチナ人の街という意味ではその暮らしぶりが伺えて興味深いので散策を続ける。

因みに、中央広場の近くにスターバックスがあった。
イスラエル側でも見なかったのに、パレスチナで見るとは不思議だな、と思ったが、やはり偽物くさい。そもそもロゴが旧式である。
さっそくwifi電波を拾ってスタバの公式ページで確認すると、イスラエルには一軒もスタバがないことになっている。
「最寄りのお店はアンマンです」と表示されている。それ、ヨルダンですがな。
見ると不細工ではあるがノベルティも頑張って作っている。努力だけは認めてあげたくなったので、15NISしたがカプチーノを頼む。
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【パレスチナのスタバ(偽物)】

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【スタバ(偽物)グッズ。買っておけばよかったな。。】

その後、歩いてチェックポイントまで戻り、またエルサレムの宿に戻る。

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朝起きて、今日の予定を考える。東のエリコか南の死海か、北のナザレ方面か。。。(紅海沿いのエイラットは、次回陸路での越境の時に確実に通過するので、今回は対象外)
問題は、シャパットである。
シャバットというのはユダヤの休日で、金曜夕方から土曜夕方までが休みとなっている。
日本の週末感覚と違い、一部の路線を除き公共交通も止まるのである。そんなアホな、なんだかんだといって動くだろう、と高をくくっていたが、本当に止まるという。
死海エリアには、スパなどを除き大した宿泊施設もないので、日帰りを考えていたが、そうなると夕方までに帰ってくるのが厳しい。
結局、北方のナザレにした。アラブ人色の強いエリアだと、アラブ系のバス会社などはシャバット中も営業しているらしい、というのも理由の一つだ。

今回はベツレヘムの時とは違い、セントラルバスステーションからバスにのる。トルコのオトガルのようなだだっ広いバスターミナルを想像していたが、近代的なビルで、バスは3階から発車、到着は2階という作りである。
このバス停がまた激混みである。チケット売り場が3カ所(常に1カ所は閉じている)、インフォメーションも2カ所しか窓口がない。看板めいたものもないので、結局、フロアの端から見て回って自分の目的地行のバスを探すのである。
尚、あとで行った観光案内所ではこれらの情報をすべて教えてくれるので、多少遠回りでも観光案内所経由をお勧めする。

ナザレに向かう道は、エズレル平野を突っ切るので途中はほとんど平らである。最後の方にマゲット山のエリアを通る。
何てことはない呑気な景色なのであるが、この山(ハル)こそ、ハル・マゲドンの舞台だそうである。


バスは予定よりも早くナザレに到着する。この時、同じバスに乗っていたらしい日本人が話しかけてくれる。
彼もイスラエル5日目だそうだが、彼にとっては私が初めて見た日本人だそうである。とりあえず2人でシャバット中の交通事情なども確かめにインフォメーションに行こうそうしよう、ということになり、そこに向かう。
会って数分しか経たない我らではあるが、二人でイスラエル美人を讃えあっている内にすぐ打ち解けた。男同士が仲良くなるのは得てして下世話ネタである。

ナザレでは存外良いホテルに巡り合えたので、ホテルでやっつけ仕事などこなし、夕方になってから晩飯がてらに受胎告知教会の下見に行った。
もう夜だったし、お祈りの時間だったので観光客は入れないルールであったのだが、ぼんやり建物を見上げていると、管理人のジイさんが話しかけてきた。
「自分はキリスト教徒ではないので、この時間に入るのは不適切だから、明日くるよ」と告げたのだが、管理人は「まぁ、入りなさい」と言うので、「ではちょっとだけ」と入れてもらった。

本当いうと、一人で静かに見学したかったのだが、ジイさんがやたら熱心に説明をしてくれる。さすがに管理人だけあって知識が豊富である。
一気に語られても覚えきれないのだが、断るのも悪いので真剣に聞いていた。そのうち、ジイさんが周囲の絵を説明して回るのに手を握ってきた。
何となく違和感はあったのだが、こんな田舎で10年以上も管理人をやっていたら人恋しくなるのかな、まぁ教会だし大丈夫だろう、と思っていた。
そのうち、いろいろ案内してくれるのだが、私の腰に手を回したり、挙句の果てには尻を触ってくるようになった。
・・・イカン、これはガチでホ○である。

・・・LGBTだとかダイバーシティとか言われる昨今、フェイスブックの写真を虹色にしちゃったりしている御仁もおられるかもしれない。
個人的には「LGBTを受容=ダイバーシティ」とは思わないが、そういう生き方や価値観があってもいいと思う。現にそういう友人もいるし。
とは言え、そのターゲットが自分に向いた時、じゃあ一緒に掘った掘られたするかというとそんな訳はない。
日本人ならその辺は空気を読んで「チガイマスヨ!」と悟ってくれのかも知れないが、相手が外国人だと難しい。
とりあえず1周すれば終わりだ。それまでは耐えしのごうと思い、彼から体を離すべく、あれはどうなってるんだとか、いろいろ大振りな仕草をしたり、注文をつけたりしてみる。
たとえば、教会の正面の扉を開けてくれないかと言うと即座に開けてくれるのである。それどころか、「いや、ここ絶対入っちゃいけないでしょ。」という所にまで案内してくれる。
健気に尽くす老人を見ると哀れな気分にもなる。ところが、彼も隙をみては私の体を触ってくるし、手を自分の股間の方に持っていこうとするから質が悪い。
終始、笑顔をキープしつつも、お互いに激しく攻防を繰り広げながら、ようやく敷地を一周めぐることができた。
最後に、管理人室でコーヒーを飲んで行けと散々勧めてくる。私も暗くなったから帰ると言ってゆずらない。
ちょうどよいタイミングで彼の携帯が鳴ったので、この機を逃してはならぬと「じゃあ、かえるねー!」と言って逃げるように去る。
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【近代的な受胎告知教会内部】

外国を旅行していると、特にアジア人男性は同性愛者に狙われるのはよく聞く話であるし、私も誘われたのは何回かあったが、まさか40過ぎて教会で働く人に迫られると思っていなかった。
幸い、明日は管理人が休みだということは会話の中で確認済である。明日改めて、清らかな心で見学することに心を決める。

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ナザレは、見るべきものがそんなに多くはない。ティベリヤの方まで精力的に見て回る気も起きず、チェックアウトまでは部屋で仕事などし、その後もシャバット明けでバスが動く19時までのんびりすごす。
実は受胎告知の場所としては、有名な受胎告知教会の他に、ギリシア正教側が主張する場所もある。
そこも教会になっているのであるが、地下から水が湧き出ており、冷涼な空気が威厳を与える良い場所であった。
昨日、ゆっくり見て回れなかったので、受胎告知教会を再度見学し、公園で昼寝をしてもまだ時間が余っていたので、残りはビールなど煽りつつバスを待つ。
シャバットは旅行者にも休息を求めるようである。

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ナザレから帰ってきてからはエルサレムの新市街の方に宿をとった。料金が安いのと、バスターミナルに近いのが魅力だったからだ。
朝起きて、死海方面に出かけるつもりだったが、何となく気が向かないので、結局旧市街の方に足が向き、友人に頼まれたヘロデ門の紋章の写真を撮りに行く。
途中、ヘロデ門とダマスカス門の間に、小さな洞窟の入り口があるのに気付いた。もともと地下の石切り場だったらしいのだが、朝早くて誰もいないので入ってみることにする。
これが思ったよりも遥かに奥が深く、広い空間で、最奥部では湧水がわいていた。
旧市街の地下にこのような空間があるのはとても興味深かった。まぁ、途中の空間はフリーメーソンの集会に使われていたらしいが。
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【正式名称はゼデキアの洞窟】

宿に戻ってゴロゴロしていたが、気が進まないながらも、イスラエルに行って死海に入らないのもなー、というそれだけの理由で死海に向かう。
とりあえずチャプっとつかって帰ってこられれば良いやと、最寄りのエレン・ゲティというところを目指す。
バスは満員で、立って行くことになった。家族連れも多いので、みんな死海に行くものだと勝手に思い込んでいたが、他に降りる人間も乗ってくる人間もいなかったので、あっさりと乗り過ごしてしまった。
まぁ、いいやと思って次のビーチがあるエン・ボケックに目的地を変更する。
(結果、マサダ城砦を通ることになったので、僥倖とばかりに見学する。)

結局、死海は15時過ぎに着いた。帰りの最終バスが19時頃と聞かされていたので急いだが、パブリック・ビーチには着替え場所とシャワーが整備されており、さらりと泳ぐことができた。
尤も、あまりにも塩分濃度が高いので、そんなに長く浸かっているものではない。ほんの5分泳いだだけで手の指がシワシワになる。
まぁ、おっさんが一人浮いたところで、楽しくも何ともないよな、と今更ながら思い至り、さっさとエルサレムへの帰路に就く。因みにこの死海だが、近年はエステその他で汲み上げが激しいこともあり、水位の低下が激しい。古い地図だと一つの湖のようになっているが、今や完全に2つに分かれてしまっている(水路で無理やりつないでいるように見えた)。海抜マイナス400mという、世界で一番低いところにある湖も、このままでは無くなりかねない。
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【いつもより多めに浮いております】

帰りのバスは、偶然にも運転手が同じ人物だったことを除き、行きとは打って変わって、私の他には4人しか乗客がいなかった。
死海からの帰りも、パレスチナ自治区を通る。
行きは気付かなかったが、ときおりバラックの集落を目にして、はっとする。殆どは小さい集落なのだが、一度、丘の斜面一面がそのようなバラックで埋め尽くされたのを見た。
疲れてウトウトしていたのでわが目を疑った程である。そのバラックの集落の傍では、放牧されているヤギと牧童を見た。ベトウィン族だろうか?
ベツレヘムで見たパレスチナとは比較にならない貧困の深淵を垣間見た気がしてドキリとする。こちらは物見遊山で死海で泳いだ帰りだと言うのに。

一旦、宿に戻ってから、晩飯を買いに行こうと広場の方へ行くと、広場の出入り口に柵が張られ、警官が見張っていた。
過激なユダヤ主義者がゲイ・パレードで障害を加えた事件は知っていたのですぐに状況は呑み込めたが、反イスラエル(反ユダヤ)の集会である。
旅行者としてはこの手の場所に近づかないのが鉄則であるので引き返し、ピタを買いに行くことにする。
ピタというのはパン生地みたいなもので、具をいろいろ選べるのである。生地が厚いタコスと言った方がしっくりくる。
これがえらく美味い上にハーフサイズだと11NISしかしないのだ。凄く素敵な食べ物を見つけたと喜んでいたが、後で見るとガイドブックにもバッチリ書いてあった。

スーパーで買ったコーラを飲みつつ、ピタを食べながら街を歩く。日曜の夜だが街は賑やかだ。
この数日を振り返っていると、イスラエルの旧市街や聖墳墓教会などを見て無邪気に感動していたが、徐々に熱が引いていくのを感じていた。
ベツレヘムは勿論、ナザレやエルサレムでも、パレスチナの旗を多く見た(日本はパレスチナを国家として承認していないが、所謂『国旗』に相当)。
一方で、ユダヤ正統派の真夏の日差しのなかでも黒ずくめのロングジャケット姿に異様な印象を持つのも否めなかった。
それは、例えばヨーロッパを旅していて列車の中で旅行者同士での会話が始められた時に、ポーランド人やセルビア人がいた場合に感じられる空気の『濁り』のようなものとは異質のものだと思った。
(おそらく私が気付かないだけで、日本人に対してもそういう『濁り』のようなものはあるのかもしれない。私が日本人である限り、『日本人がいない場合』というものに遭遇しないので解らないだけだ。)

・・・疎外されている人間が疎外されていることに気付かないことはない。
一方で、国を持たぬことはロヒンギャ族を見ても解るように言いようのない不幸なことである為、イスラエル人の言い分も理解はできる。とはいえ同時に、そのために住む場所を追われている人々がいるのも事実だ。
そう思うと、いろいろと旅行者を気遣ってくれるイスラエル警官でさえも、チベットでの中国武装警察のように思えてきてしまう。
・・・この問題は、当分解決をみない。日本人には真に理解することすら難しい深いものなのだろう、きっと。

すっかり憂鬱な気分になっていた私は、もういちどスーパーに戻り、ビールを買ってから帰ることにする。

■■■■
翌日は、イスラエル博物館で死海文書などを見てからエルサレムを後にし、テルアビブに戻って一泊した。
テルアビブではカルメル市場近くのパスタ屋でビールやコーヒーを飲んで半日をぼんやり過ごした。

因みに、イスラエル人にとって「イスラエルの首都」はエルサレムであるが、アメリカや日本はこれを認めていないので、我々にとっての「イスラエルの首都」はテルアビブのままである。こういった歪みが随所に見られるのが、この国の特徴だ。

今回の宿は共有スペースにコーヒーディスペンサーもあり気に入っていたが、飛行機が早いので5時半には立ち去る。
ずっと晴天続きだったが、最終日になって初めて曇りとなり、時折、雨滴が顔に当たる。

飛行場では自動チェックイン機で簡単に手続きを済ませられたので、そのままゲートに向かったが、どうやらチェックインカウンター横のセキュリティーエリアに気付かず、すっ飛ばしてしまったらしい。
パスポートにセキュリティー確認済の黄色いシールが貼っていないのを咎められる。いや、普通に進んできただけなんですけど。(だったらセルフ・チェックインの意味ないがな。。)

係員がすっ飛んで来て、「ちょっと来い」と言われ、私だけゲートの列から出され、カウンターの前に呼ばれる。
そこから猛烈な質問攻めである。入国より出国の時が何故に厳しいのかは謎ではあるが、これまでのイスラム諸国への入国理由などを中心に細かく聞かれる。荷物も、全て一つ一つ入念にチェックしている。
さすがに、洗濯物は袋から出さなかったが、袋を上から入念に触り、金属等が入っていないかを調べている。
私としては、「これは○日目に履いたパンツで、これは○日と○日に履いたパンツであります!」と熱弁を振ってやろうと身構えていたので少し残念な気持ちになる。

入国履歴については、下手にリサーチの話などするとこじれてしまうので、全て「一人で観光」で押し通し(嘘ではない)、検査に協力的であることをアピールする為、終始笑顔をキープ。
これが奏功したのか不明だが、人によっては数時間にも及ぶこともあるらしい検査を私は15分ほどでクリアし、黄色いシールを貼ってもらった。

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【恐怖:免税なのに日本より高い1カートン】

■■■■
以上が、今回のイスラエル旅行であった。もともと(一般的に持たれている印象よりは)安全な地域ではあるが、無事に帰ってこられて何よりである。

いつもながら、旅先では多くの人に助けてもらう。今回も例外ではない。
ほんの数名から親切を受けただけで、その国の国民の気質を語るのは危険だが、少なくとも私にとってイスラエル人はなべて親切であった。
(ちょっと列車の改札口でまごついているだけで、いろんな人が「こうするんだ!」と身振りで教えてくれたりする)

だから、私も日本で困っている外国人を見かけると、必ず声をかけるようにしている。
言葉が解らなくて、結局、何の役にも立たないこともあるが、それでも気持ちは伝わる(と思っている)。

私が旅先で得る最大の収穫とは、実はこの点なのかもしれない。

※参考:wikipedia「パレスチナ問題」




プチ社長日記:『イスラエル漫遊記#2』の話

テルアビブはテルアビブ・ヤッフォと言われるように、ヤッフォという南の古い町からスピンアウトしたテルアビブという街が、
今やヤッフォを吸収して都市圏を形成しているそうだ。なので、南の方が建物は古い。
街ができてから100年が過ぎているので、再開発も行われている。
ショッピングモールなどでのセキュリティ・チェックが厳しいことを除けば、スペイン辺りのタンジールなどに雰囲気は似ているように思った。

空港から最寄りの駅まで鉄道を使い、そこからは歩いて宿まで行くことにした。途中でテルアビブ美術館に寄る。
重い荷物を預かってくれて、室温・湿度調整が完璧で、基本的にwifiが使えてコーヒーや酒を静かに飲める場所、、、ということで美術館は旅行者の味方だ(と勝手に思っている)。
ここは展示物も素晴らしい。現代美術展示が非常に充実している他、お国柄シャガールの作品が豊富なのが面白かった。建物自体は、少しヘルシンキ美術館に似てるかな、という感じだ。


美術館.JPG
【テルアビブ美術館】

宿に着き、一休みしてからヤッフォ方面へと散策する。
テルアビブは地中海に面している。因みにイスラエルはこのほかに死海、紅海に面している。海岸沿いは一大マリン・リゾート状態である。
さらに海岸線沿いに歩くと、右手に小さな岩が見られる。
ガイドブックによると「アンドロメダが縛られていた伝説のある岩」とある。
・・・いやはや、これはないだろう、ないわ、というのが感想である。
ご存知とは思うが、アンドロメダ伝説というのは、ギリシャ神話の一話である。

***
余りにも怖い形相故、見るものを石にさせる蛇女メデューサ。鏡の盾を使ってメデューサ自身を投影させ、それを倒したのが英雄ペルセウスである(自分の姿見て石になるメデューサもどうかと思うが)。
その英雄が神馬ペガサスで帰還する最中、嵐の海で岩に括り付けられたカワイコちゃん(アンドロメダ)を発見!
見ると彼女はくじら(化け物)に食われそうになっている。・・・なんでこんなことになったかというと、お姉ちゃんのカシオペアが、「妹のアンドロメダは女神より可愛いのよ」とか余計なことを言って神の不評を買ったからなのであるのだが(それで差し出されるのがなんでカシオペアでなくてアンドロメダやねん、とも思うが)。
・・・で、その危機一髪のアンドロメダに対して、「結婚してくれたら助けるけど、どうよ?」と相手の弱みに付け込む提案を呑ませ、袋に入れていたメデューサの首をくじらに投げつけ、哀れくじらは石化して海に沈む。。。そんで結婚、よかったね、という話である(化け物が化け物の首見て石化するのもどうかと思うが)。
***

私が天文部部長だったのは25年以上前の話なので、細かい所の記憶は微妙だが、まぁ、そんな話である。
因みにこの話、カシオペア、ペルセウス、くじら、アンドロメダ、ペガサスは星座になっている。ペルセウスは恒星アルゴルがメデューサの首にあたるので、厳密にはメデューサも星座になっている。

話が長くなったが、問題は「アンドロメダをくじらに差し出す為に、岩に縛り付けた」という部分であり、その岩とは怪物(くじら)の棲む洞窟の前だった筈である。
ところが、陸側には洞窟らしきものは何もない。すぐそばのビーチでは女の子がビーチバレーをしている。怪物が棲んでいる気配は全くない。
それどころか、くじらの棲家と思われる場所にはバースタンドがあり、私がそこでビールを煽っていると何故か店員がつまみを出してくれたり一杯余計に驕ってくれたりしたので、すっかり上機嫌である。
あれがアンドロメダの岩なんて、いくら何でもこじつけ過ぎだろ、と苦笑いだが、上機嫌なのでどうでも良くなった。
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【海辺のバー(奥に見えるのがアンドロメダの岩)】

■■■■
2日目は早起きしてエルサレムに移動する。鉄道好きとしては、バスに比べてあからさまに不便であっても鉄道を利用したいところ。
結局、期間を通じて3回鉄道を利用したのだが、イスラエルの窓口係の人は、毎回親切であった。プラットフォームや発車時間まで丁寧に教えてくれる。
そもそも人種が交じってる国なので、外国人に対して慣れているのかもしれない。
イスラエル人の殆どは複数語を操るという。ヘブライ語とアラブ語が王道だが、標識などは英語標記もある。4番手にロシア語、といったところか。英語は大概通じる。
ホームで列車を待っていると、北欧でお世話になった列車がやってきた。この「正面衝突ドンと来い!」みたいな、いや、むしろ「正面衝突したいんでしょ?ねぇ?」という独特の面構えの車両は一度みたら忘れない。
(この列車に限らず、イスラエルはノルウェーから多数の車両を輸入しているという。)

車窓は、なだらかな平地から山がちな景色を映したりと、なかなか見せるものであった。
ただ、エルサレムの駅が不便極まりないのである。そも3線しかない小さい駅のくせに、バスの停留所がわかりづらい。市中央に行くには駐車場を突っ切った坂の上の停留所なのである。そこには当然客待ちのタクシーが待っている。
一応、メーターの設置が義務付けられているが悪徳ドライバーが多いのは世の常である。断固としてバスを待とうと思っていたが、中国人男性1名とフランス人女性2名がタクシーの相乗りを提案してきたので乗ることにする。結果、64NIS(1NIS≒30円)だったので、一人当たり16NISとなった。初乗り1キロ=11NISと聞いていたので、トータルでは正直解らんが、一人分だと悪くない値段だ。
エルサレム終点.JPG
【エルサレム駅(左が乗ってきた列車)】

新市街から旧市街の方へ歩を進めてくいると、旧市街の城壁が見えてきた。立派な城壁で、この辺の土地の景観を象徴する、ピンクがかった白っぽい石(エルサレム石)でできている。あぁ、やっと来たかと心が躍る瞬間だ。
城壁を眺めつつ、ヤッフォ門から旧市街へと入る。
門から入るとすぐのところに、宿を見つける。

■■■■
午後から旧市街の見どころを見学する。
旧市街の様子.JPG
【ダビデ塔からの旧市街の様子】

狙いは『ダビデ塔』『聖墳墓教会』『嘆きの壁』である。どれも超一級の観光スポットであるが、この中ではやはり『聖墳墓教会』が圧巻である。ヴァチカンには何度か行ったことがあるが、それはキリストの弟子ペテロが葬られている場所である。一方で、本家ともいえるキリストの墓参り(?)をしていないのは何となく順序が逆な気がしてちょっと引っかかっていたのである。その願いが叶うのだ。
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【聖墳墓教会入口】

キリストの眠る『聖墳墓教会』であるが、ここは磔刑の場所であり、死後の清めの場所でもあり、埋葬の場所でもある。埋葬と言っても彼は死後復活し、その40日後に昇天したと信じられているので、その通りならば亡骸はないはずなのだが。。。
それはともかく、キリスト教徒にとってはここほど見どころがある場所はない。何しろフランス南部トゥールーズに本拠を持つアルビジョワ十字軍や巡礼団なども訪れるほどの魅力である。当時の旅行は命がけなので、途中でバンバン倒れて死んでいく記述が残っている。それにも拘わらず、引き寄せるものが、ここにはある。
去年、私もトゥールーズを訪問し、その後バスと鉄道でイスタンブールまではやってきた。シリアとイラクでアラビア半島の入口が塞がった状態なので今は断念せざるを得ないが、平和になった暁には十字軍にならってイスタンブール〜エルサレム間の陸路を完結したいと願っている。無論、彼らのように徒歩ではないが。

それほどの場所ではあるが、教会自体は驚くほど普通サイズである。寧ろ小さい。ルネサンス芸術で煌びやかなヴァチカンとは比較にならない。ただ、地下が発展しているのが素晴らしい。テルアビブと違って内陸にあるせいだろう。空気が乾燥しているので、日差しは刺すような強さで厳しい暑さだが、日陰に入ると驚くほど涼しい。教会内部、それもキリストの墳墓の場所に入ると鳥肌がたったが、それは温度差だけではないだろう。キリスト教徒ですらない私ではあるが、周囲の人々の祈りの真摯さと歴史に心が打たれる。

幸い、時間がよかったのか、すんなりと棺のあるところまで入ることができた。先に入ったおばさんに目で促されるままに、私も跪く。かつての巡礼者のように艱難辛苦を乗り越えてここに跪いた人々の気持ちを思うと、申し訳ないようないたたまれない気持ちもするが、その場所に自分もいることの喜びが勝る。

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旧市街の良い場所に宿がとれた為、半日でエルサレム旧市街の多くを見て回れたことに気をよくして部屋で寛いでいると、酔っぱらった男が部屋を間違って入ってきた。なんと日本人である。イスラエルで最初に見た初めての日本人が彼であった。躊躇なくドアを開ける彼の鷹揚さと、鍵を締めない私のいい加減さの邂逅が織りなす奇跡の出会いではあったが、話をしたところ彼はこの宿のヘビーユーザーであるそうな。困ったことがあれば聞いてくれと爽やかに去って行った。
夜中にもう一度、『嘆きの壁』を見学してから眠りにつく。

プチ社長日記:『イスラエル漫遊記#1』の話

アタテュルク空港(トルコ)にきている。
朝の4時だというのに24時間空港だけあって普通に免税店も営業している。結構、街の中心部に近いのに24時間空港とは至って羨ましい。
まぁ、時間が時間なのでよくよく見ると、ベンチや床の隅っこで寝ている人間がゴロゴロいるのだが。

成田は昨日の22時半のフライトだった。
成田には23時までに離陸しないといけない(23時を超えると朝まで待たないといけない)ルールがあるので、
ちょっと不安ではあったが、空港は夏休みだというのにガラガラで、寧ろ前倒しでの離陸となった。

良い時間のフライトだったので、特に映画を見ることもなく、目覚めるとすでに機はウラル山脈南部に差し掛かっていた。
座席の航路図ではちょうどドネツク上空を経て、クリミア半島上を通過することになっている。かつてマレーシア機が撃墜された場所である。
「どうすんのかな?」と思って眺めていたものの、やはり機は大きく南を迂回することになった。
競争に鎬を削る航空会社としては、燃料代が勝敗を左右する筈である。とはいえ安全には替えられない。
こんなとこにも紛争コストがかかっているかと思うとしょんぼりである。
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【さすがに迂回】

トルコでの乗り換えは2時間待ちである。朝の8時にイスラエルのテルアビブにつく。
イスタンブール発テルアビブ。。。昨今、ISとクルド人の双方に対して強硬姿勢を打ち出したトルコに対して、
彼らがテロによりダメージを与えるには格好の路線ではある。
いきおい、怪しそうな人間が周囲にいないか見渡すのだが、ジャージにパンジャービ(パジャマの語源になった、インドの貫頭衣)を着てる私が、
どう見ても一番アヤシイので安心だ。


■■■
イスラエルへの入国は、拍子抜けするほどあっさりしており、簡単に入国カードが渡された。
入国カード.JPG
【入国カード】

入国カードといっても名刺くらいの大きさの紙である。代わりにスタンプはパスポートに押されない。
イスラエルに行ったことのある方には、このスタンプ問題は常識ではあるが、今年になって少し制度が変わっている。

そも、イスラエルの存在を認めないアラブ諸国の一部では、パスポートにイスラエル入国の痕跡があると、
「おまえ何イスラエルとか行ってんだコラ」と入国を認めないという事実がある。

かつてはイスラエルでも普通にスタンプが押されていたのだが、これでは当該国に行く予定のある人間は困るので、
イスラエルでは入出国の際に「パスポートにスタンプ押さないで!」と頼むと別紙に押してくれるというWスタンダート的なルールを便宜で適用してくれていたのだ。
これが今年から一律入国カード制に変わったのである。

ただ、これでアラブ諸国の入出国に問題がないかといえば、そういうこともない。
たとえば、ペトラ遺跡を見るためにヨルダンに入国すると、当然ながらヨルダン側に「陸路入国」のスタンプがつく。
どの場所から入国されたかも記されてしまうので、バレるというのである。
私は陸路での国境越えの旅が大好きなのだが、今回はイスラエル一国にとどまることにしたのは、上記理由による。
実際にヨルダンやエジプト側の陸路入国スタンプで断られたという日本人の意見を聞いたことはないのだが、用心にこしたことはない(※)。
まぁそれでも厳密に言うと、日本の入出国のスタンプが日付入りで残るので、空白期間からイスラエル滞在が炙り出される可能性はあるが、
さすがにそこまではすまい、という詰めの甘さは残るのだが。

※検査官はプロなので、パスポートをざっと見るとどこに行ったかはすぐ読み解いてしまうようだ。
実際、イスラエルの出国時検査では、私のパスポートをざっと見ただけで、モロッコなどのイスラム諸国の入国を完全に押さえていた。


もっとも、イスラエルの入国履歴があると入国させてくれないアラブ諸国とは、イラク・シリア・イエメン・レバノン・スーダンである。
イラク・シリアなどは「そもそも当分は行けないっしょ」となるので、殆どの人は気にしなくて良いだろう。
ただ、スーダンに入国できないのは痛い。
私の「死ぬまでにやりたいことリスト」の中に確実に入る「アフリカ縦断」において、アフリカ大陸北東にあるスーダンは要の場所なのだ。
アフリカの西側を縦断するのは治安や疫病リスクが高い。一般的には東側ルートになるのだが、そうなるとスーダンはルートから外せない。

今回、イスラエルからヨルダンやエジプトに陸路で抜けたとしても、私のパスポートはあと5年で失効する。
そうなれば証拠は消えうせるし、無理にやるなら故意にパスポート紛失届を出して再発行でもよいだろう(非常に面倒だが)。
でも、「あと5年以内にアフリカをブチ抜いてやるぜ!」と自分を奮い立たせるために、今回はイスラエル一国のみの訪問とし、
その分、(次回来るときは短日程でも大丈夫なように)主要なところは押さえようという目論見だ。
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【外務省安全ページより:何だかんだ言って割と安全!?】



プチ社長日記:『インド・ネパール国境越え:パトナー・ルクソール・ビルガンジ経由(没稿リターン)』の話

目の前で大きなプロペラが回っている。
自分の着ているクルタの襟が震えるほどの強風に吹き付けられているが、寒くはない。

そのプロペラが、ぬるい空気を撹拌するだけのシーリング・ファンであると気付くと同時に、倦怠感が体を襲う。

ベッドから起き上がり、宿の廊下にでる。向かいの部屋のドアを確認するが、施錠されている。
廊下から外階段に出て眼下を見下ろす。
錆びついている手摺は、おそらくその本来の用途を成さないだろう。試す気力もない。
手摺には触れず、持て余した手は左脇腹を掻く。またダニにやられたようだ。

廃墟となった建物の隙間から太陽が見える。
夜明けだ。
昨晩には瓦礫とゴミだらけにしか見えなかった地上には、よく見ると子供たちが当てもなく歩いていたり、牛がのっそりと歩いているのが見える。
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「何で、こんなところに来たんだっけ?」
無論、自分の意思で来たのだが、それでもここに来たのが幸運にも、不運にも思える。

このルクソールというネパール国境に近い街にたどり着いたのは、昨夜21時過ぎだった。

***

「今度、インドに行ってみようと思っているんですよ。」、、六本木のバーで、私が在籍していた会社の先輩に言ったのは、
出発の2日前だった。厳密には夜中なので1日前である。

先輩は社用でネパールのカトマンドゥから帰ってきたばかりだった。
実直で部下の面倒見のよい、尊敬できる先輩だ。

その先輩が「カトマンドゥ、良かったぞ。おまえも見て来い。」そう言ったのが、そもそもの始まり、である。
「カトマンドゥって、インドの左上でしたっけ?」
「馬鹿、右上だ。」
「あ、そうですか。じゃあ、行けそうですね。行きます。」
というので、当初インドだけを見る予定が、急遽ネパールへ足を伸ばすことに変更したのだ。

もともと私は運動会(体育会のことを我が母校ではこう呼ぶ)気質なので、先輩のいう事は絶対なのだ。
別に強制されている訳ではないのだが、世界中を見ている先輩が言うのだから、カトマンドゥとはきっと良い街に違いあるまい。

勿論、すんなり回答できたのには、多少の願望や勝算めいたものがあったからだ。

まず、インドの「右上」ならば今回の『コルカタINのデリーOUT』を予定している旅の前半のイベントになる筈である。
前半ならばトラブルに対応しやすい。それに、たかが一国の国境越えである。
私はその1ヶ月前までヨーロッパを旅行しており、その旅だけで、のべ25回の国境越えをしている。
勿論、ヨーロッパでの国境通過は比較的容易であり、特にシェンゲン協定加盟国間では何のチェックもない場合がある。あってもパスポートを見せる程度で、その相手も国境審査官というよりは鉄道の駅員といった趣だ。

その程度だから、ヨーロッパにおいて国境を越えるかどうかは、その朝に目覚めた気分次第でどうとでもなった。
今回も、ネパールではアライバル・ビザが取得できることだけ確認し、後は現地に行ってから考えよう、インドだけでもつまらないし、丁度良いや、と思っていたのだ。

***

本来、旅は予定通りにならないものだが、早速、目論見違いが生じた。

インドへはコルカタから入ったが、ここの宿は(その表示とは違って)wifiが入らなかった。
多くの旅行者にとって、これはつまりインターネットが見られないことを意味し、コルカタでの情報収集が満足に出来ないことを示していた。
それでもヨーロッパなら、スターバックスやらマクドナルドで簡単にフリーwifiに繋がるのだが、コルカタではそういう店が極めて少ない上に、ややこしい手続きを必要としていた。これは実は日本でも似たような事情であるので、インドを悪く言うつもりは無いが、まともにフリーwifiが繋がる場所を公共の場所で見つけるのはなかなかハードルが高い。
辛うじて洋書屋の喫茶コーナーでアクセスできる箇所を見つけ、そこがネット上での唯一の情報源となった。
外国人価格でコーヒーを提供する店ではあるが、足繁く通ったので僅か3日で「またカプチーノかい?」と言われる様になってしまった。

そこでのネット情報によると、インドから陸路でネパールを目指す場合、幾つかのルートがあるが、メジャーなのは、バラナシ〜ゴーラクプル〜スノウリとインド側を移動し、スノウリからネパールのバイラワに入り、そこからカトマンドゥに入るルートが一つ。それと、コルカタ〜パトナー〜ルクソールとインドを移動し、ビルガンジからカトマンドゥに至るルートがもう一つ、といった様子である。

丁度その時、コルカタで知り合ったインド人がパトナー出身であった為、情報量としては多いであろうルクソール経由を選択することにした。そもそも地図の直線距離で見ても近そう、というのも魅力的だった。平たく言うと、安易に決定した。

後になって解ったのだが、インドに2年在住している邦人に聞くと、インドからのネパール国境越えは、圧倒的に前者のゴーラクプル経由ルートが良いとのことであった。そもそもルクソールまでの道が非常に悪く、治安も良くないというのがその理由である。
(パトナーのあるビハール州はインドの中でも最も貧しい州であり、停電も頻発し、自由旅行がハードということも、ガイドブックの端っこに書いてあった。これらの情報は、後になって恐ろしく正確であったと思い知らされることになる。)

それでも、ルートが決まった私は、意気揚々とコルカタ駅から夜行に乗り込み、パトナーに向かったのであった。

***
朝の5時頃にはパトナーに着く筈であった。しかし、到着予定時刻を過ぎてもそれらしい駅に着かない。地方へ行くと駅の看板にも英語表記はなく、ヒンディー語のみになるので、駅に停まる度に「ここがパトナーか?」と乗り合わせた乗客に聞く羽目になった。
余りにも聞くのでウザいと思われたのか、指折り数えて「今から4つめの駅だ」と教えてくれてからは、私も少し大人しくなった。

結局、2時間半ほどの遅延でパトナーに到着した。夜行だから2時間半の遅延で済んだのかも知れないが、そもそも運行ダイヤがチャレンジングすぎるのではなかろうか?という疑問が拭えない。

着いてみると意外に大きな駅である。跨線橋を渡り、駅の北側に出る。(因みに日中の方角は全て太陽の位置から判断している。)
途中、ホームの屋根の上に、犬がいるのが見えた(下写真)。猫なら屋根の上にいるのは不思議ではないが、どういう塩梅で犬が上がってこれたかは謎である。
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パトナーからガンジス川まで1.5kmほど歩いて付近を観光した後、ルクソール行きのバスを捕まえるため、駅の南側まで戻り、そこから乗合オートリクシャーでぎゅうぎゅう詰めの中、2kmほど離れたバスターミナルへ向かう。乗合なので10ルピー(約20円)である。

ターミナルに着くと「May I help you?」の看板を掲げた警官の詰所がある。ルクソール行きのバスをどこで捕まえたら良いかを聞こうとしたが、私が話しかける前に中の(何もしていない)警官は手を激しく振って拒絶の意味を表した。因みに「May I help you?」の看板を掲げた詰所はその後もインド旅行中に何度か目にしたが、一度もhelpしてくれた試しはない。

バスターミナルと言っても、道路の端にバスが何台か停まっているだけなのだが、それでも中に入っていくと、インド人がわらわらと寄ってきて、「どこへ行くのだ?俺たちのバスに乗れよ!」と詰め寄ってくる。
「ルクソールに行きたいんだ。」というと、インド人達が顔を見合わせ「ルクソール行は、今日の朝の便は運行中止となって、夜行しかない。しかも選挙があるから、どこまで行けるかはわからない。このバスに乗れば途中のモティハーリというターミナルまで行くから、そこからルクソール行きに乗り換えろ。」という。
正直、インド人が自分のバスに乗せる為の口実だと思っていたが、周囲のインド人に聞くと皆、同じことを言う。
見るとエアコン付のバスで快適そうだったのと、夜を待つよりも明るい内に国境を越えられるかもしれないという期待から、このバスに乗ることにした。

因みに、丁度この時期、インドでは総選挙が行われており、それも与党交代が実現しようとする重大な選挙であった。
選挙が重大な治安の悪化や混乱を(特に地方において)惹起することを、私はフィリピンの生活で思い知っていた筈であった。
フィリピンのアロヨ政権誕生の時も、私はマニラやバコロドにいたのだ。
そこでは、対立候補を襲撃するなどのニュースや、現政権のイメージダウンを狙った事件(白昼の銀行強盗など)が多発していた。
日本では報道されなかったと記憶しているが、外国人が居住する高級マンションが占拠されたりもしていたのだ。
にも関わらず、その後の日本の生活に慣れきっていたからか、私は選挙があることをコルカタで知っていながらも重要視していなかった。

この時点で、,修發修發離襦璽帆択の誤り ∩挙の存在 というミスを犯していたのだが、その時の私は、少しでも国境に近づくことで頭が一杯であった。

何度かの休憩を挟み、6時間ほどバスに揺られたところで、車掌の男に「ここだ。降りろ。ルクソール行のバスはこの先を歩いたところで乗れる。」と言われた。
どうやらここがモティハーリという所らしい、手持ちのガイドブックにも載っていないので、モティハーリと言われても、何処のことだかさっぱり解らないのだが。

下車して周りを見渡す。てっきりバスターミナルを想像していたのだが、普通に道端である。それも、真っ直ぐな一本の道である。
かろうじて道の両側にバラックのようなものがあるだけで、バスはここでUターンして引き返して行った。
因みに道路は、途中からずっとそうであったが、舗装されていない。車が通過すると砂塵で目が痛い。

途方に暮れている暇もないので、近くのインド人にルクソール行のバス停はどこかと聞くと、「こいつが案内する」と言ってきた。案内と言ってもどうせ金を要求してくるのがインドである。まぁ、20ルピーくらいならいいかと思っていたが、彼らも連携が悪かったらしく、もう既に支払済みと思ったのか、案内した男は何も言ってこなかった。

その男に連れてこられた所は、先ほどの場所から200mほど真っ直ぐ行っただけで、単なる十字路である。
標識があって、真っ直ぐいけばルクソール、右はダッカと書いてあった。
とりあえず方向はあっていたようなので喜んだが、距離が解らない。そもそもダッカはここから無茶苦茶遠い筈である。つまり、静岡あたりで見かける「右に行けば東京、左に行けば名古屋」みたいな標識かもしれない。

事前にGoogleマップでもダウンロードしておけば、電話会社の電波を受信できる状態にいるだけで(通話料は発生しない)、現在地が把握できるのであるが、そもそもコルカタで十分なアクセス時間がなく、たとえあったとしても、基本的に紙の地図以外を使用しない主義からダウンロードしていなかったと思われる。それ以前に「何処か解らなくなる」状況にはならないと高を括っていたのも事実だ。

「今、自分が何処にいるか解らない」というのは「自分は迷ってしまった」というのと同じである。

さて、十字路にはジューススタンドがあったので、そこの庇に逃げ込み、ジュースをちびちびやりながらバスを待つ。
いろんなインド人に聞いたが、運悪く英語が通じないらしく、ジェスチャーから「日が傾くころにはバスが来る」ということだけがわかった。

個人旅行である以上、待つのも旅行の内と思ってはいるが、猛烈な暑さが容赦なく体力を奪う。

ここで3つ目の障害が立ちふさがる。つまりインドでの5月中旬は酷暑期 ということである。
そもそも月間平均最高気温が40度なので、今日の様に中旬で晴れていれば45度もザラにあるのである。

私は庇に身を隠して、バスが来るたびに交差点に飛び出し、「ルクソール行きか?」と聞くのを繰り返した。
だが、待っても一向にルクソール行きのバスは現れない。
ここまで来たバスから一緒に降りたインド人がいたが、彼はルクソールが目的地ではなかった。
彼にも確認したが、「バスがいつ来るかわからない」と言われるだけだった。それどころか、「ネパールの国境は、封鎖されてるんじゃないかな、だって、選挙だし。」と言ってきたのだ。

選挙で治安が悪くなるのは知っていたが、国境閉鎖まで至るはずはない、と考えていた。
少なくともインド〜ネパールの航空便が欠航しているとは考えづらいので、空路での入国手続きは実施している筈である。陸路だけ閉鎖されるなんてあるのだろうか?インド・ネパールの国境は、インド・パキスタンの国境よりも安定している筈である。
如何に貧しく、治安の悪いビハール州であろうとも、自国の経済にダメージを与えるようなことをする筈がない、と考えていた。
その考えは変わらず、「そういう可能性もあるかな。(でも大丈夫だ)」という程度の認識しかなかった。

でも、確かに中東で見かけるような、武装してターバン巻いている人間がピックアップトラックの荷台で運ばれているのを何度か見た。
「制服じゃないってことは、軍隊でも警官でもないんだよね、じゃあ何なのか?」・・・その辺は深く考えないことにした。

2時間も待っただろうか?バスが来るたびに日蔭から飛び出し、断られ、方向が同じなので半ば強引に乗ろうとすると押し出されることもあった。
「これでは明るい内に国境を越えるのが困難になってきた。ルクソールまで何とか辿り着いて、一泊しよう。でも、それだったら最初から夜行バスに乗っていれば良かった!!」後悔したが、夜行が運休にならない保証もないではないかと自分を慰めた。


乗合オートリクシャーの呼び込みの少年がいたので、ルクソール行のバスの話を聞いたら、「近くにローカル線の駅がある。そこまで連れていくから列車で行けば良い。」との返事が。鉄道なら少なくとも自分がどこにいるか解らない、という状況からは脱出できるだろうし、少なくともこんな灼熱の交差点にこれ以上待ってはおれぬ、とそのリクシャーに飛び乗った。(9ルピー(18円))

乗合リクシャーは客が一杯になるまで発車しないのだが、その乗客の内の何人かは英語が通じたので状況を話すと「バスを待った方がよくないか?そもそも国境越えられるのか?」と言う意見も出る。
自分でも「少し焦りすぎではないか?」と思ったが、このままでは埒が開かないので、とにかく駅まで乗っていくことにするんだと言った。

駅に着いたが、コルカタ駅と異なり、英語表記が一切ない。仕方ないので他の列車待ちの人間に聞きまくるのだが、要領を得ない。
線路なのだから、「こっちか?あっちか?」の2択しかない筈なのだが、英語が通じない、もしくは中途半端に通じているので、回答が一致しない。そうこうしている内に列車が入線してきた。これを逃すと次はいつになるか解らない。
近くの人間に「これはルクソールに行くのか!?」と尋ねるとYesと答える。とにかく乗るか、と思ったところ「それはルクソールに行かないぞ!逆方向だ!」と答える声が聞こえたので踏みとどまった。

声の主は家族連れで、来ている服も周囲のインド人に比べると垢抜けていた。
彼に礼を言い、「ではルクソールへはどうやっていけば良いか?」と教えを乞うたのだが、とにかく逆方向であり、しかもルクソールには直接行かないだろう、という回答であった。
確かに、ルクソールに列車で行けるなら、最初から列車でのルートがガイドブックなりに書いていそうなものである。
遅延が甚だしいインドの列車だが、それでも長距離の移動にはバスよりも軍配があがる(東ヨーロッパでは列車よりバスの方が速いが、それは道路が整備されているからである。)。
直接ルクソールに行けないとなると、やはりバスで行った方が良いのかな、と考えを新たにし、また乗合リクシャーに乗って元の十字路まで戻る。

日も傾き、少しは過ごしやすくなった十字路であるが、それでも暑い。
何度かバスが来ては駆け寄り、「ルクソールへ行くか?」と聞くのを無為に繰り返す。
「どうしてパトナーからの直行バスを待たなかったのか、直行便が運休だとしたらなぜ引き返さなかったのか」と再び悔やんだが、もう遅い。
そうこうしていると、白いシャツを着た爺さんも同じようにバス待ちしているのに気付いた。

近づいて話をすると、「選挙で混乱していて、バスが来ないんだ。いつもなら来るのだが。」と言う。
あぁ、やはり選挙のせいだったのか、と改めて思う。
彼はムンディと名乗った。(お互い様だと思うが)酷くなまっているので、正確には違うかも知れないが。
ムンディさんは、物腰柔らかく、外国人である私に非常に好意的だった。彼によるとここからルクソールまでは60kmほどあるが、彼の目的地はその手前15kmとのこと。インド人の距離感ほど当てにならないものはない(商売が絡む場合は特にそうだ)が、それでもざっくりと距離感が掴めたのは嬉しかった。とにかく、私は途中までムンディさんに付いていくことに決めた。残り15kmなら何とかなるだろう。
私は折れかけていた目標を再び掲げた。何としても今日中にルクソールに行き、国境を越えてやる。


とは言え、自分がどこにいるかも解らない有様なので、できる事はムンディさんに泣きつく事くらいである。
彼と私は暫くバスを待ったが、彼も埒が開かないと悟ると、「列車で行こう」と言い出した。
その手は2時間前に試したよ、と言いかけたが、今回はムンディさんがいるから何とかなるだろう、と思い2人でリクシャーに相乗りして再び駅に戻る。
駅に着き、彼が、「こっちだ」と示す方向は、先ほど私が誤って乗りかけた列車が向かう先と反対を指していた。

インド人は、嘘をつくというよりも、知らなくてもとにかく「自分が思ったこと」を言う国民だ、と理解した方がいいのかもしれない。
それが正しいかどうかは一向に気にしないのだ。少なくとも、そう理解した方が、インド人に対してやるせない怒りを抱くことはぐっと減る。

ところで、列車に乗る前に飲料を確保するのは、インドでは必須の儀式だ。

ムンディさんは、空きペットボトルに水道水を汲み置き、私は念のため売られているミネラルウォーターを買った。
こんな状況下で生水を飲んで腹をこわしたら目も当てられない。

二人でホームに向かったが、途中で足を引きずる乞食が何か言ってきた。
インドでは珍しいことではないので私は無視したが、彼は立ち止まり、ボトルの水を飲ませてあげた。
どうやら足が不自由なので水汲み場の蛇口に届かず、水が飲めないらしかった。

自分だけ安全な水を持っていながら、乞食を無視したことを気恥ずかしく思った。
勿論、事情が解らない「よそ者」である私たちにできることは限られているし、そこに付け込まれる事件も後を絶たないというので、無視したこと自体は間違っていないとは思う。注意を引かれる内に貴重品をスラれることなど、よく聞く話だ。
ただ、そういうインド人ばかりではない。ムンディさんのような人も沢山いるのだ、それを忘れてはいけないな、と自分を戒めた。因みに彼はインドでは少数派のムスリムである。

列車はほどなくしてやって来た。ローカル線の客室は最下クラスしか連結されていないが、それでも前へ進めるだけ嬉しかった。
さすがインド人のムンディさん、列車が入線してくれると窓の鉄格子ごしに自分のタオルを投げ入れ、場所を確保してから乗車する。
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インドの列車の窓には鉄格子が嵌められているのが定番だ。不正乗車防止の為だと思われるが、事故や火災の際は逃げ道を塞ぐことになる。どうやら、その辺は気にしないらしい。

車内は混んでいて、彼のおかげで私も座席にありつけたが、頭上の網棚には子供が寝ている。
とは言え、よく動画で見かけるように、屋根にまで登っている風ではない。

その網棚の子供や同席の人々全員が私を興味深げに眺め、何やら話をしている。
ムンディさんは彼らに私のことを紹介したり、いろいろ通訳してくれた。
「コイツはな、日本からわざわざ来たんじゃよ。」とか得意げに説明している風でもある。

ムンディさんが途中の駅で瓜を買って勧めてくれた。
旅先で勧められたものを口にしないのは、旅行者の鉄則だ。インドは今でも睡眠薬強盗の被害が多いと聞く。2〜3日かけて信用させる手口もあるので、まだ会って数時間しかたたない人物では尚更だ。
教科書どおりではそうなのだが、私は有難くいただくことにした。
その頃には車内の多くの人間が私のことを気に掛けてくれていたし、あのホームでの乞食に対する姿勢を見て、信用できると思ったからだ。
それに何より、信用しないと先に進めない。

列車はスゴーリ※という駅に着いた。(※後日、日本から調べたらサガウリと発音するらしい)
列車に1時間以上乗っていたので、あと30km位のところまでは来たのではないか?
タクシーとはいかないまでも、せめてオートリクシャーがあれば到達できる距離まで接近している筈だ。

しかし、駅には何もなかった。畑の中にぽつん、とあるだけである。
厳密にはホームもなく、多少突き固められているだけで、地面に降りるのと変わらない。
ムンディさんと線路の上を、最寄りの踏切を目指して歩く。
彼が言うには、ルクソールへ行くにはこの先、ずっと列車に乗ってから、乗換え駅で列車を元来た方向に向かって伸びる引き込み線方面に乗り換える、ということらしい。
どうやら一筋縄ではいかないようだ、ということだけは解った。

踏切までたどり着くと、そこは街道の様になっていて、男達が荷車で瓜や肉を売ったりしている。
肉には、ざるが被せてあるものの、ものすごい数の蠅がたかっている。ざるが全体に黒色に見えるほどだ。
街道とはいえ、タクシーはない。選挙活動のせいだろうか、先ほども見たような、荷台に銃を携えた男たちを乗せたトラックが時折、通り過ぎる。
私と同じく列車を降りた者たちは、そういうトラック「以外」の車両に対して、「乗せてくれ、乗せてくれ」と群がっていった。

丁度、踏切で車が減速するので、そこに「うわっ」と人海戦術でとりつき、お願いをするのである。
気付くとムンディさんもその群れに交じっている。
なるほど、そういうことか。
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どうやら、タクシーやバスというものは諦めねばならぬらしい。
ただ、車両としてのバスは通る。既に満席であったり、行先が違うようだ。

トラックの運転手に誰かがお願いをし、「ハーン」(Yes)とか言えば、わっと乗り込むのである。
さすがのインド人もドライバーの許可なしに乗り込んだりはしないようだ。

車両は通過するが、なかなか乗せてくれるドライバーがいない。そりゃそうだ。どう考えても燃費が悪くなる。
それでも「選挙でバスも何もないんだ!」とか懇願しているらしい、たまに乗せてくれるドライバーもいる。
1時間ほど経ったであろうか。2台目で荷台に登ることに成功した。
最初の1台目の時は、既に荷台が一杯だったので、正直気おくれしてしまったのだ。
ただ、私が諦めた後にインド人が果敢にトラックの後ろに取りつき、走り去っていくのを見ると、言い知れぬ敗北感に襲われた。
ムンディさんは、私が乗ってから乗ることに決めているようだった。どこまで優しいんだこの爺さん。
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トラックの荷台に乗って揺られていくと、30分も経たぬうちにガススタンド傍で全員、降ろされてしまった。
ドライバーがここに泊まっていくつもりなのか、ムンディさんにも事情は掴めていなかったが、好意で乗せてもらっていた以上、降りることに拒否権はない。幸い、ガススタンドなので、待っていると車両は来る。
ここまでくれば、後はオートリキシャーで良いだろう、そう判断した私はムンディさんに「500ルピー上限で良いから、ムンディさんの家経由でルクソールまで行くように交渉してほしい。」とお願いした。
6時間乗ったエアコン付のバスが300ルピーである。残りはたかが20kmと踏んでいた。オートリクシャーに500ルピーとは破格の値段だ。
私が交渉すると吹っかけられるので、私は木陰に隠れてムンディさんに交渉してもらうことにした。
「是非もない、快諾間違いなしだ。」私は勝利を確信していた。

ところが、意外にも交渉は成立しなかった。
500ルピーでも先方はの答えはNoであった。
他のドライバーにもお願いしたが、同じ結果だった。

理由を聞くと、「国境近くまで行ってトラブルに巻き込まれたくない」、「ルクソールまでの道は、極めてコンディションが悪い」というものだった。
価格は需要と供給で決まる。
日も暮れてしまった。野宿にはある程度慣れている私だが、さすがに街道の真ん中で夜を過ごすのは勘弁願いたい。
改めて、1000ルピー上限で交渉してもらい、1000ルピー丁度で妥結を見た。

どう考えても、(定常運行しているのならば)パトナーからの直行便に乗った方が安い。これで料金面でも負けてしまった。
言っても仕方ないので二人でリクシャーに乗ると、他のインド人もわらわらと「乗せてくれ」と頼んできた。
いわゆるタダ乗り希望であり、厚かましいといえば厚かましい。
だが、私も先ほどまでトラックにタダ乗りしてきた身分でもあるし、私自身は運転手の横なのでスペースは確保されている。
地元の人間も交じっているのか、ムンディさんもNoと言わないので乗せてあげることにした。

結局、バイクを改造しただけのオートリクシャーには運転手入れて7人が乗っていた。後ろの席では安堵の空気が広がり、煙草を吸ったりしている。その中の2名のインド人が、私と同じルクソールからの国境越えを狙っていることも解った。
彼らも同じ疑問を抱いていたのだろう、「国境は開いているか?」の問いかけをすると皆「開いていない(だろう)」という回答であった。国境が通過できなければ、私を含めた3名のこれまでの苦労は無駄だった、ということになる。
がっかりする彼らを見て、私も「これは越えられないんじゃないか。。。」と考えるようになってきた。

越境を狙うそのインド人2人の内、英語が話せる兄貴分の名はハーシュと言った。
ムンディさんの家から先は、この男に頼ろう、と決めた。リクシャーの席を譲って正解だ。
まだまだ運は自分にある、これはイケる。そう自分を奮い立たせた。

・・・「ルクソールまでの道は、極めてコンディションが悪い」確かに、そう聞いていた。
だが、これほどまでに悪いとは思わなかった。
四駆でもない限り、普通には走れまい。人間の頭ぐらいの石がゴロゴロしている。最初は明るいので良かったが、暗くなると絶望的だ。当然、道路灯などもなく、闇の中をよろよろと進む。見ると、歩く速さと変わらない。
運転手も相当疲れているようだ。それでも忍耐強く頑張ってくれたのは、1000ルピーと、私を含めた乗客5名の「頼むぞ!」という祈りの為だと思われる。

乗客が1人減っているのは、ムンディさんが先ほど別のガススタンドで降りたからだ。
どう考えてもただの道なのだが、スタンドが目印にでもなっているのだろうか。
ただ「ここまで来れば大丈夫だ」、とだけ言っていた。彼は100ルピーを出し、せめて受け取ってくれ、と言ってきた。
私としては寧ろガイド料を進呈すべきかと考えていた位なので固辞した。だが、先方も引かない。
結局、その100ルピーを受け取り、握手して別れた。彼がいなかったら、私はパトナーに引き返していたかも知れない。感謝、である。

ハーシュが、「あと少しでルクソールだ」と言ってきた。彼はここに来たことがあると言う。徒然草ではないが、「何事にも先達はあらまほしきことなり」である。運転手も、目的地が近いせいか饒舌になってきた。無論、後席の乗客と話しているのでヒンディー語なのだが、時折、「俺も日本に行ってみたい」だのとリップサービスをする余裕も出てきたようだ。

21時を過ぎて、ようやくルクソールに着いた。長距離トラックが沢山停まっているのが、国境の雰囲気を伝える。
だが、街が暗い。停電しているのだ。
エンジンを回して自家用発電しているところ以外は真っ暗であるが、よく見るとメインストリート沿いにローソクの灯りなどで店をやっている者もいる。

ハーシュと一緒に、彼が前回宿泊したという宿に向かう。彼に値段を聞いてもらったところ400ルピー(約800円)だという、まぁまぁの値段がしたが、彼と同じ宿に泊まる方が安全だ。宿はそこに決め、荷物を置き、彼に「外でビールでも飲もうや」と言うと、少しためらってから「OK」と返事をしてきた。
宿屋のオヤジに、「明日、国境を越えようと思っているが、可能か?」と聞くと、オヤジは首を振り、「国境は閉ざされている。不可能だ。」と回答された。
これにはハーシュも私も心底がっかりした。
流石に国境の町の宿屋のオヤジが、何の得にもならない嘘を自信満々に言うとは思えない。
一体、何のために苦労してここまで来たのか。
とは言え、当座は空腹を満たすことの方が先である。階段を下りて夜のメインストリートに出る。


メインストリート、と言っても舗装されていない道路が一本あるだけで、それに面して宿や飲食店があるだけである。
それも300mくらいだろうか。
その中から1件の店を見つけ、中に入る。酒を飲みたかったが、インド人は余り酒を飲まないこともあり、その店では売っていなかった。
何より、ハーシュが飲みたがらなかった。宗教上の理由からかと思ったが、彼自身はビールが好きだという。
その飲食店はお世辞にも綺麗とは言えないものであった。ピンクの壁には大きなヤモリが4〜6匹ほど張り付いている。一番近くのヤモリが近くを飛んでいた蛾に反応していたので、私は注視し、その捕獲の瞬間を見つめていた。確かに食欲をそそられる店でないことは間違いない。
だが、よくよく聞いてみると、彼が飲みたがらなかった理由は、「治安が悪いから」であった。

私たち以外に、店内には2人のライフルを持った私服の男がいた。一人は自動小銃だが、もう一人はボルトアクションの旧式である。本当に射撃できるのかも疑わしい代物ではあるが、腰のあたりをブラブラしている獲物の銃口が、偶然とは言えこちらに向くのは気分がよろしくない。

旅行者にとって最も大事なものは、危険を察知する嗅覚である、と私は思う。

私は、故意に危険な地域に行くことを好まない。どうしても当該地域を通過する必要があるなど、理由がなければ敢えて行こうとは思わない。
その場合でも、慎重に行動し、速やかに突っ切ることを信条としている。
一方で、何のリスクも負わずして世界を見て回るのも不可能である。ましてや、「何を以て危険と判断するか」の基準を日本においていては欧米先進諸国以外には旅行できなくなってしまう。

・・・その民兵化直前の2人にしても、寛いで食事をしている様子であり、店の出口を塞がれていてはいたが、とりたてて危険は感じなかった。危害を加えようとする人間は、たとえ素手でも危険な雰囲気を周囲に発するものだ。

私はハーシュに教えてもらったばかりのヒンドゥー語で「無視しろ」と言った。彼に言わせれば、店のヤモリを始め、インドで最も使える言葉がこれだという。
私には生粋のインド人のように右手だけで料理を食べるのは難しい。彼がフォークを貰ってくれたので、それぞれの皿の料理にありつきながら、

「明日、どうする?国境ゲートまでは距離があるみたいだから、バスか何か出てるのかな?選挙で出ていなければ、歩いて越えるしかないね。」と相談を持ち掛けた。
彼にはネパール入国ビザが不要だが、私はビザが必要である。
その時の手続きにも彼がいてくれた方が心強い。
晩飯を奢る代わりに、私は彼らを巻き込む気満々だった。

「それなんだけど。。僕たちは明日、朝5時の列車でパトナーに帰ることにするよ。」ハーシュは言いづらそうに言った。
「えぇっ?折角ここまで来たのに??」
「国境は閉ざされているよ。」
「でも、行かないと解らないよ。トライはしようよ。」
懐柔しようとしたが、彼らの決心は固かった。

ハーシュは気まずさからか、晩飯は私の分も払い、その後、一緒に飲んだラッシー代も払ってくれた。

宿に戻り、水しか出ないシャワーを浴び、ベッドに横たわる。
シーリング・ファンは最早、虫よけとしてのみ機能していた。

さすがにインド人が私より先に越境を諦めるとは思っていなかった。
もっとも、彼の連れである弟はまだ高校生くらいの年齢であり、より注意深く行動するのは理解できる。
それにしても、楽してここまで来たならともかく、散々苦労してここまで来た筈だ。
それでも引き下がる程というのは、よほど危険なことなのだろうかと自問した。

何となく「イケる」と思っていたが、宿屋の主人の話といい、ハーシュの判断といい、状況から判断すると引き返した方がよさそうである。
ただ、引き返すと言っても、ここまで来てしまった今ではそれも容易ではない。
最良の選択はハーシュと行動を共にしてパトナー行きの列車に一緒に乗ることである。

今度ばかりは、自分の見通しが誤っていたか。。。それでもこの目で国境をみなければ納得も行かない。
私は、たとえ無理でも明日、行けるだけ行ってみよう、と思い眠りについた。

***
朝、4時過ぎに目が覚める。日本ならば7時半である。体内時計のせいか、目覚ましのなる15分前に目覚めた。
頭がぼんやりして状況を把握するのに一瞬、間が空く。旅行中に陥るこの感覚は嫌いではなかった。
部屋を出て、向かいのハーシュの部屋のドアを確認すると、鍵がかかっている。まだ寝ているのだろう。

私は外階段から夜明けを眺めていた。

酷暑期のインドにあっても、この時間は清々しさが僅かばかり残っている。
もっとも眼下は廃墟とゴミの山が広がっているのだが。
DSC_1645.jpg

「よしっ」と自分に気合を入れて手早く荷物を纏め、階段を降りる。
宿屋のカウンターで昨日のオヤジがテレビを見ていた。
番組はどこに行っても選挙関連のものが映し出されていたが、ここも例外ではなかった。

「何処へ行くんだ?」オヤジが聞く。
「国境へ!」
オヤジが、「閉ざされていると、昨日言っただろう?」という表情をしたので、「試してみたいだけだよ!」とだけ言ってメインストリートに出る。

通りを北の方へまっすぐ行くと、踏切にぶち当たった。左手の方には列車が停止しているのが見える。
これがルクソール駅で、もしかしたらあの列車にハーシュは乗るのかも知れないな、と思いながらも先へ進む。

途中で両替屋が声をかけてきた。ネパールに越えられるか解らないが、越えられたとしても文無しでは困る。
1000ルピーだけ両替しようかと交渉してみると、1000ルピーは1600ネパールルピーだという。
ボラれている訳ではないので、両替を済まし、更に歩いていくと、遠くに橋が架かっているのが見え、その手前の道の真ん中に椅子を出して座っている警官が見える。あれが国境らしい、思っていたより随分と近い。

陸路でA国からB国へ国境を越える場合、まずはA国側で出国手続きする施設があるエリアがあり、そこから先に進むと本当の「国境」がある。更に進んでB国側で入国手続きを済ませ、そのエリアを抜けて晴れて越境完了である。
国境まで2kmと聞いていたが、出国手続きするエリアはその手前で、予想よりも随分と近かった、という訳のようだ。

橋を渡ろうとすると、案の定、警官に呼び止められる。
何処から来たかなどを答え、傍らの小屋を指さし、イミグレーションオフィス(イミグレ)へ行けという。

「国境、越えられるのか?」と聞いても、イミグレへ行けの一点張りである。
もっとも、許可を出すのはイミグレなので当然なのだが。
DSC_1646.jpg
で、橋の袂にあるイミグレ(写真右の青い建物)を見ると扉は閉まっており、南京錠がぶら下がっている。
「やっぱり、閉まっているじゃないか!」と思ったが、よく見ると南京錠は開錠された状態である。
ドアの隙間から除くと、人が机の上で毛布を被って寝ている。

意を決してドアを叩き、その人間を起こす。叩き起こされた係員は、怒るでもなく、準備するから待ってろと言うので外で待つことにした。
どうやら対応してくれるらしい。

15分も待つと中に入れてくれた。机の配置も変わっていた。
更に少し待つと、きちっと制服を着た審査官が現れた。
いよいよ出国審査だ。渡された用紙に記入し、係員がパソコンで何かを調べている。いろいろ聞かれたが、出国のスタンプを押してくれた。
選挙はインド側の問題なので、インド出国が可能という事はネパール入国も可能という事だ。

イミグレの小屋を出た時、私は思わず「よしっ!」と小さくガッツポーズをした。
先ほどの警官に挨拶をして、橋をずんずんと渡っていく。水は殆ど枯れているが、雨季には大きな川になるだろうと予想された。
橋の中央に錆びた鎖がダランとぶら下がっていた。

これが、本当の国境線だ。
周囲からは「閉ざされている」だの散々言われたが、実際に行ってみると大したことはない。ほんの一跨ぎだ。
思わず苦笑する。

写真を撮りたかったが、ネパール側に10人ほどの青色迷彩を着込んだ軍人がいるので控えて置いた。
原則として、国境地帯は撮影禁止である。
その軍人と思っていた集団だが、近づいてよく見ると警察である。
どおりで迷彩が青色なのか、とひとり合点が行く。
できるだけ大人しく通り過ぎようと思ったが、向こうから話かけてきた。

「どこから来たのか?」など、尋問というよりは、単なる個人的興味で聞いている様だった。
通り一遍の会話をして去ろうとすると、「アリガトウ。サヨナラ!」と返してきた。
これでネパールの第一印象はぐっと良いものになった。

橋を渡りきると、装飾的なウェルカムゲート(下写真)とネパール警察詰所があり、その先に鉄柵でできた機能的なゲートがあり、またも水色明細の警察官達がパスポートチェックをしていた。
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中には女性警官も交ざっていたので、躊躇うことなく女性警官にパスポートを見せる。
警官といえども腰には自動小銃がぶら下がっているので、少しでもピースフルな感じのする女性警官の所へ、本能的に足が向かってしまう。

その女性警官は、私が日本から来たことだけを聞いて、すんなりゲートを通してくれた。
ゲートを出ると、ネパール側の国境の町、ビルガンジだ。

「よし、ネパールについたぞ!まだ午前中だし、越境祝いだ」と目についた飲食店に入り、朝食をとることにした。
店のオヤジにカトマンドゥに行くにはどうしたら良いかなどを聞きつつ、飯を食べる。
食後のチャーイを飲んで、越境できた喜びを噛みしめていたが、ふと「あれ、そういやビザを購入していないし、入国スタンプを押してもらってないぞ」という事に気付いた。
飯が運ばれてくるまでの間に、カトマンドゥ行きの乗合四駆の手配をしたので、その四駆に乗ってしまえばカトマンドゥである。

おかしいなと思い、勘定を済ませて鉄柵ゲートまで戻り、先ほどの女性警官に「イミグレはどこですか?」と聞くと、鉄柵の向こう側を指さして、「あっちじゃないの」と言う。
「いや、俺、もうネパール入っちゃったけど、イミグレ受けてないから戻っていいかな?」と言うと、女性警官は苦笑いしながら「勿論よ!」と答えて通してくれた。
どうやら私は、小一時間ほど不法入国していたらしい。
入国スタンプがなければ、今は良くても出国の時に必ずトラブルになる。危ない危ない。

イミグレを探しながら国境付近まで戻ってきたが、先ほどのネパール警察詰所にあるだろうと思い、警備の人に聞いてみると、脇の小屋がそうであると教えてくれた。余りにも小さいので普通見過ごすでしょこれ、という大きさである(写真左※国境の写真は所謂「隠し撮り」です。。)。
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ネパール側の人々は、入国審査官に限らず、なべて親切であった。問題なく中で手続きを終え、地図を貰い、再び鉄柵をくぐり、先ほどの女性警官が今度は笑顔でビザを確認した後、再度ネパール側に出た。

あぁ!やれやれ!!これで越境完了だ。

***

以上で、今回のインド・ネパール旅行で最も印象深かった国境越えの話は終わる。
ビルガンジからカトマンドゥまでの乗合四駆の6時間ほどの旅は、それなりに辛かった。
荷物は天井に乗せ、車内には詰め込まれた10人がいた。
が、何よりつらかったのは道が悪路であり、沢を突っ切ったりと「四駆でしか越えられない」道をひた走ったことだ。
ただ、同じ悪路でもオートリクシャーではなく四駆であることの安心感は圧倒的で、太陽光は眩しいものの高地にあるネパールはインドに比べて断然過ごしやすかった。同乗したネパール人もいい奴らで、私はここでも彼らに昼飯を奢ってもらう栄誉に見舞われた。
こういう困難は旅にあっては寧ろ歓迎すべきであり、道中も含めて、ネパール側では全てが順調に行ったのである。
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昨今、旅行をしていても「国境越え」は徐々に大きなイベントではなくなってきている。
それは両国の交流を促進し、経済的な意味でも重要なことであるが、旅行者にとっては少し寂しい気持ちもある。

昔、NATO空爆の2年後にベオグラードを鉄道で訪れたとき、夜中に機関銃を持った兵士2名に叩き起こされ、懐中電灯の直射を受けながら質問に答えて入国したが、13年後に同じルートで再訪すると、女性の車掌がパスポートを確認してスタンプを押すだけだった。
何年か後にはシェンゲン協定入りしてスタンプも廃止されるかもしれない。

今回の越境は、久しぶりに「国境を越える」という大変さを思い出させてくれた。
無論、選挙に重なるとか、事前の自分の準備によって回避できた要素も大きく、今、再訪すれば拍子抜けするくらい簡単に越境できるかも知れない。でも、それも含めて「どうなるか判らない」のがこの国の最大の面白さではなかろうかか?と、私は改めて思うのだ。

■追記:『深夜特急』の沢木耕太郎氏は、パトナーからルクソールまで列車を乗り継ぎ、同様にビルガンジから越境していることを、帰国後に確認した。

プチ社長日記:『棚卸中』の話

2月末で、これまで参画させていただいていた大きな仕事がひと段落しました。
私は撤退となりましたが、丁度、リフレッシュが必要かなーとか思ってたところなんで、1か月余り、ヨーロッパ中心に走り回っておりました。

ルートで言うと、下記のような感じです。(通過しただけの国は除く)

【ルート】※⇒:鉄道 →飛行機 ➡バス
イギリス⇒フランス⇒スペイン⇒モロッコ⇒スペイン⇒フランス⇒スイス⇒オーストリア⇒スロヴァキア⇒セルビア⇒ブルガリア➡トルコ→イラン→トルコ➡ギリシア➡マケドニア➡コソヴォ➡モンテネグロ➡クロアチア➡ボスニア・ヘルツェゴヴィナ⇒ドイツ⇒オランダ⇒ベルギー⇒フランス

【モロッコにて】


まぁ、この辺は別途ご報告いたします。

当面は、内部的な仕事を粛々とこなしつつ、年齢的にも節目なんで、自分にできること/できないことなんかを棚卸しようかと思ってます。
・・・とか言ってるとカッコいんですが、普通に日中は相場見たりしてるんで、あんま変わらないですね。
ま、そんな感じです。

いろいろ長期にわたって滞っていた作業などで、一部の方にはご迷惑をおかけし、申し訳ございません。

プチ社長日記:『ヴェトナム2002、2013』の話

前の会社での大先輩が、マレーシアのクアランプール出張の前にヴェトナムのホーチミン市にて視察をするというので、スケジュールを無理やり調整して合流してきた。

金曜夕方の飛行機だったのだが、昼過ぎまで普通に仕事をしており、いつものように直前に空港につく。
空港につくなりビールをあおり、4日間、結局ビールばかり飲んでおり、やってることは東京と変わらないんじゃないか疑惑もあったが、男の遊びはやはりこうでなくてはいけない。

実は10年以上前に、当時の彼女とダナン、ホイアン、ホーチミンと旅したことがある。当時はビザが必要だったこともあって、日本人はあまり見なかった。今回は駐在と思われる会社員含めしばしば目にした。
街は綺麗で(多分10年前より更に綺麗になっている)、治安に難はあるものの快適な旅だった。
『地獄の黙示録』では『Saigon....Shit.』で始まるホーチミン市(サイゴン市)だが、私にとっては今回も前回も楽しい時を過ごせたnice cityである。

前回と今回の写真を何枚か掲載させていただく。

■統一会堂(旧大統領官邸)より
【2002年】
DSCN0044.JPG
⇒お目汚し失礼。
背後に見える正面ゲートを解放軍の戦車が突破する写真は、ヴェトナム戦争を代表する写真のひとつ。
ここはバルコニーとなっていて、演説などにも使われたとか。
ウエストポーチに時代を感じる?

DSCN0045.JPG
⇒庭に展示された戦車。

【2013年】
DSC_0177.jpg
⇒日本でも国会議事堂前の景色が変わらないのと同じで、こういうところはあまり変わらないよね。
ただ、よく見ると大通りの遥か先にビルが建ってたり、樹が微妙に成長して背景左側のビルが見えづらくなっているようです。。。

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⇒戦車は変わらず展示され、当時の様子を語る。
が、人間は確実に老ける。。。 orz

■ホーチミン市(サイゴン)風景
【2002年】
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⇒サイゴン川のほとり。ちょうど今回宿泊していたマジェスティック ホテルのそばの筈なのだが、あまり覚えていない。。。

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⇒多分、先ほどの統一会堂からゆるゆる市中心部へ歩いている途中の道と思われる。今回もこの付近を通り、一軒家カフェで2時間近くのんびりしたのは楽しかった。バイクの多さは今も変わらないが、今は自動車も増えた感じ。あと、今回はみんなヘルメットを被っていたが、2002年当時はノーヘルが多かったんだな。。。
マナー向上は素晴しいことですね。

【2013年】

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⇒サイゴン川のほとり。宿泊先であるマジェスティック ホテル。1925年創業の老舗であり、戦時下は『日本ホテル』だったことも。この建物も2017年には高層化されるのだが、丸の内Kitteの様に一部の外観は残るみたい。
後ろにそびえるのが、サイゴンで一番高いビルである。

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⇒ホテルのバルコニーからサイゴン川を望む。

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⇒上の写真で背後に映っていたビルの展望台から。ちょっと前の上海ほどビルの建設が目立ったわけではないが、それなりに工事は行われており、街は拡大している。特にサイゴン川の東がどうなるのか注目したい。上海の浦東のように発展していくのではないだろうか。ちなみにヴェトナム都市部の物価は今でも日本の4割程度と言われている。

プチ社長日記:『チベット』の話(5)


シガツェ着。

■チベット人の死生観について
チベット人が死ぬと、今でも8割程度は鳥葬となるそうだ。私はてっきり火葬の比率が上がっていると思っていたので、意外だった。鳥葬は死者の体を切断、砕き、肉団子のようにして鳥に食わせる葬制だ。ラサのセラ寺の奥の山などに普通に鳥葬場はある。
チベット人の鳥葬は世界的に有名だが、残りの殆どは水葬が占める。これは、前半のプロセスは鳥葬と同じで、後半は川に流して魚に食わせるのが異なる。川の傍に塔婆があってタルチョが大量に掲げられていたら、水葬場と思った方が良い。
このため、チベット人は魚を食べない。(鳥葬の鳥は猛禽類なので、普通に鶏などの肉は食べる。)
更に西チベットの方に行くと、川も上流で大きな魚もいないので、犬に食わせる。寺の壁画に、犬に死者を捧げる様子が描画されていた。
因みに、火葬は偉い僧侶が死んだ際、その遺骨を採取するために適用され、土葬は自殺者に適用される。なんでも自殺と言えば服毒自殺と相場が決まっていたようで、鳥や魚に与える訳にはいかなかったのが理由らしい。

鳥葬にせよ水葬にせよ、何とも適当な葬制に見えるが、そもそも火葬にしようと思ったらかなりの燃料が必要であり、植物限界より上に住んでいる人々には薪の調達もままならないので仕方が無い。
一方で、日本でも沖縄などには昔、風葬というのがあり、これは遺体を風にさらし風化を待つ葬制だ。私がガイドにこの話をすると、とても興味深そうに聞いていたのが印象深い。

チベット人は生まれ変わりを強く信じており、次の輪廻のためにも殺生をしない。
ふと見ると、運転手のミマが車内に迷い込んだ虫を丁寧に外に逃がしてやったりしている。どうやら、チベット人に殺虫剤は売れなさそうである。

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(写真:シガツェのタシルンポ寺。ダライ・ラマと並ぶパンチェン・ラマがここで説法などする。パンチェン・ラマは普段は北京に住んでおり、平たく書くと共産党の管理下にある。因みに右端の白い砦のような建物はタンカ台であり、祭の際にはタンカ(仏画)が飾られる。)

■チベット人の生活について
衣食住について、簡単に。
ギャンツェやシガツェなどの地方都市に行くと、民族衣装の方が(特にお年寄りに)多い。地方によりバリエーションがあるので、ガイドに聞くとどの地方のものか教えてくれる。

お茶としては有名な『バター茶』があり、これは茶というよりスープのような代物であり、正直、私は苦手だ。ただし、寒さが厳しく乾燥したチベットにおいては、このような形で脂肪分を摂取するのは大事なのだろう。
大麦をおやつがわりにバター茶でティータイムというのが一般的だ。食べ物は肉が多く、空港近くで食べたチベット風ハンバーガーは逸品である。その他、饂飩やすいとんに近いものがよく食されていて、こちらは日本人の味覚にもあうだろう。

住居に関しては石造りの二階建がポピュラーで、貧しい人は1階建である。ガイドに縁のある人の家にお邪魔したのだが、居間には共産党の毛沢東、江沢民、小平のポスターなどが飾られている。(配られたらしい。)
石造りなので冬は相当寒いと思われる。

信仰心はとても厚いので、余暇と小銭ができれば巡礼に出かける。ガイドのガジョン女史も、昨年ラサ市を五体投地で巡礼するほどの信徒だ。
巡礼はポタラ宮殿やジョカン寺などの対象施設に対して右回りに実施する。マニ車も右回りに回すし、多分、右回りに何か意味があるのだろう。因みにガジョン女史が採用した巡礼方法は、旧市街を右回りに回るというもので、これを実施すると旧市街内の全ての寺を巡ったことになるそうだ。日本では稀に「ラマ教」という表現をみかけるが、本当は「チベット仏教」が正しく、れっきとした大乗仏教である。

引退した人々は巡礼にしばしば出かけ、巡礼者同士で仲良くなって、茶屋で半日ほど過ごしたりする。結果、彼らの老後は寂しくないらしい。信仰は彼らの生活に溶け込み、ともすればレジャーのような位置づけになってたりするのが興味深い。 ↓
シガツェからゴンカル空港に行き、北京へ。

■北京雑感
北京ではNOVOTELに2泊したのだが、快適の2文字であった。何より高山病に悩まされない。酸素吸い放題。食べたいものも何でも手に入る。最高。
私はチベットのガイドブックしか持っていなかったが、北京は2回目なので問題なかった。王府路の方へタラタラ出かけると、ウブロやジャガー・ルクルトなどの高級腕時計店が軒を連ねる。ウブロの路面店などは、日本にもないような気がする。さすが、GDP世界2位の首都だけはある。
以前来たのは北京五輪の前である。随分と間があいた。私はある執念を持って、前回食べ損ねた狗肉を喰らうべく、狗肉屋を探したが、雑貨屋に変わっていた。北京五輪に際し、「犬を食べるなんて野蛮だ」と言われないように共産党から退去命令が出たというのはやはり本当なのだろうか。
一方で、王府路の小路に入ると、あいかわらず蠍やら百足の串焼きが売ってて安心する。
どうやら、食べられる犬を可哀想と思う人間はいても、食べられる蠍や百足や芋虫を可哀想という人徳者はいなかったようだ。

日本人も捕鯨問題でよく叩かれるが、(絶滅の危機に瀕している場合を除いて)他国の食べ物にケチをつけるのはナンセンスだと思う。シー・シェパードの中核で正義の味方気取りのオーストラリア人が、カンガルーを食べることはあまり知られていない。私には鯨がNGでカンガルーがOKな理由がさっぱり解らない。
因みに、自然雑貨(?)を売っているLASHという店はシー・シェパードのスポンサー様である。厳密にはオーストラリアかイギリスの販社だったと記憶しているので、「赤頭巾ちゃん気をつけて」だの「恋の導火線」と言った、それは商品名なのかふざけんな、と言った商品をお買い上げになった貴方のお金がそのまま資金としてシー・シェパードに入る訳ではないが、飼い犬の責任は飼い主にあるので、LASHは日本市場をナメてんだろうな、という印象を抱かざるを得ない。

・・・何の話だ。 CIMG0366.JPG
(写真:天安門広場。アジアの中心。)

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(写真:とっても美味しそうな串焼きたち。)

■『旅行』の終わり
5年前と同じように、北京飯店でカプチーノを飲む。65元。
中国は日々変貌を遂げているが、皮肉にもこの中心地が一番変わらない。ただ、街を走っているスクーターは電化が進んでいて、空気が心なしか綺麗だ。また、街全体にゴミが減っていて、数年前のように「一歩、路地に入ると異臭が充満」といったことも減った。そんな街並みを見ながら、ゆるゆるとカプチを飲む私は、5年前から何か変わったのだろうか?

・・・『旅行』という言葉は『行』という動詞が付いている分、『旅』よりも具体的な感じがする。
人生を旅にたとえる人はいても、旅行にたとえる人はいない。
私にとって旅行とは、『非日常体験の一連のつながり』と定義されようか。私にとって青海省からチベット自治区での体験は、まさに非日常の連続であった。
ところが、私が今、こうやって寛いでいるのは、別に非日常ではない。明日、空港へ行って飛行機に乗るのも、特別な体験ではない。
『場所が日本であろうがなかろうが、そんなことは関係なく、今回の私の旅行は終わったのだな。』そう思うと、寂しい気持ちになった。
カプチは、まだ温かい。標高5,000mでは沸点が86.5度であるので、コーヒーを作っている内に冷めてしまうのだが、ここはカップも温めてあるのか、飲み頃が続く。
私は久しぶりに飲む美味いカプチを飲み干して、思わず自分に言い聞かせるように呟いた。
『帰るか。』

プチ社長日記:『チベット』の話(4)


・ナンカルツェを超え、ヤムドク湖やカロー・ラ氷河へ

■行く手を阻むものたち
道中は、チェックポイントだけが問題ではない。
一番多いのは家畜による渋滞である。奈良県出身の私は、鹿による渋滞の経験はあるが、ここではあらゆる家畜が渋滞のトリガとなりえる。油断ならない。
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(写真:ヤク。頭が良いのか道を空けてくれる。)

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(写真:羊。馬鹿なのかクラクションを鳴らすと寄ってくる。)

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(写真:ヤギ。マイペース。突如崖から大群で来るので驚く。一の谷の合戦で虚をつかれた平家の気持ちがわかる。)

まぁ、先方からすれば、道路が整備される前から牧畜を営んでいるのであって、我々がクルマ優先だと考えていることが激しい思込みである可能性はある。
その他にも、突貫で道路を作ったせいか、オーバーハングの崖下を走行する羽目になるので、普通に握りこぶし大の落石が転がっている。時には人の頭ほどのものもあるので、直撃は避けたいところ。
見ると、私の乗っているフロントガラスにも既に皹が入っており、強度は著しく低下している模様。マズイ。
あと、中国他の国でありがちだが、突如道路が陥没してたりするので、気を抜けない。途中で小破した4駆車が乗り捨てられているのも見た。とか言いつつ、運転手がいるので私はやることなくて後部座席で転がっているだけなのだが。

・カロー・ラ氷河着
CIMG0253.JPG(写真:ここら辺りは7,000m級の山が普通にある。美しいの一言。)

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(写真:カロー・ラとは別の氷河。ガイドも「名前はない」と。本当か? 政府はどこでも電柱を立てるので、電柱を避けるために標高5,000mの場所を歩きまわされることになる。因みにうっかり走って息が上がると、地獄の苦しみが待つ。)

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(写真:カロー・ラ氷河。ガイド:「昔は道路のところまで氷河が来てたんだよ!」 私:「な、なんだってー!」みたいなマヌケな会話が楽しい。)


・ギャンツェ着。
■中国の発展についての雑感
ギャンツェは17世紀にグシ汗の侵攻を受けるまではインドとの交易路の要衝として栄え、その後も軍事上の重要性、及びパンコル・チョーデを中心としたチベット仏教の拠点として歴史を持つ地方都市だ。
軍事上の重要性を示すものとして、ギャンツェ・ゾンという城堡がある。
私が旅行をする時は、「○○をしたい」「△△を見たい」と言った具体的な目標がいくつかあるのだが、その内のひとつが、ギャンツェ・ゾンからの眺めを見る、というものであった。
ギャンツェ到着後、ゆるゆるとギャンツェ・ゾンへ一人で向かう。どこでもそうだが、五星紅旗が翻っているのが見える。
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(写真:ギャンツェ・ゾン。窓ガラスは割れ、荒れ放題。)

入口はガイドが言っていたように立ち入り禁止となっていたが、こちとら日本からわざわざ来ているので、無視して登る。
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ギャンツェ・ゾンは現在改修工事を実施しており、「外国人向け」に綺麗にしているといった具合だ。途中、何人かの工夫とすれ違ったが、適当に挨拶して登り続ける。公安や軍の関係者がいれば当然登れないが、中国らしく工夫は自分の仕事に関係なければ何も言ってこない。
何しろ標高が高いので休み休みでなければ登れないのだが、登りきると苦労に見合うだけの景色が広がる。
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(写真:ギャンツェ・ゾンよりパンコル・チョーデ方面を望む。)

こちらはチベットらしさが色濃く残っているエリアである。尤も、あとからガイドに聞いた話では数年前までは往来の主役は馬車であったが、今は殆ど自動車となっているように、ここも近代化されてきている。
漢人の多く住むエリアは、やはり中国の一地方都市と言った趣になりつつある。
中国を複数回訪れていると強く意識させられるのは、その成長の力強さだ。無論、危うさを孕んだものであることも理解している心算だが、その力強さには圧倒されざるを得ない。
・・・時間は遡るが、ラサで上海人の女子大生に写真をせがまれたことがあった。普通に手を伸ばしてカメラを借りようとしたが、被写体として映れという意味だったので、快く光栄に預かったのである(後で連絡先を聞いておけばよかった、と後悔したが)。
その時に思ったのが、彼女たちは洗練されており、魅力的で、明るい未来を信じているかのように屈託がなく、強引であるということ。まるで中国自身のようだということだ。
彼女たちの同年代の日本人は草食だとかゆとりとか言われているが、頑張って渡り合っていただきたい、と思う。
とは言うものの、残念ながら日本人の株が、今後あがる見通しはない。売り推奨だ。アジアに出て日本人であることが追い風となる日々が一日も長く続くことを祈る。


・ギャンツェを出発し、チベット第2の街、シガツェへ向かう。
今回の旅行も大詰めである。