2008.04.29 Tuesday
プチ社長日記:『便器の蓋閉めます派 への改宗のお知らせ』の話
・・・よもや私がこのような命題で苦悩するとは。
私の周りで、「便器の蓋を閉めるか否か」、という議論が最近とみに話題になっている。ここでいう便器とは、洋式便器のことであり、蓋というのはウンコするときに必要に迫られて閉める(おろす)もの(中蓋)ではなく、便器そのものの蓋のことである。
・・・私は母親以外は男性ばかりという家庭で育ち、一人暮らし16年という男である。そして、合理を愛する男でもある。
そんな私が、蓋を上げて用を足し、蓋を閉める、という行為を行う訳が無い。そもそも蓋いらねぇだろ、という論者であった。
遍く日本の『男性用トイレ』の蓋は圧倒的にオープンであることを考えると同意される方は多いであろう。
自分しか使用しないものは勿論、所謂『男性用トイレ』というのは、使用者が男性に限定されているため、蓋を上げっぱなしというのは世界的に暗黙の了解である、と私は信じている。
一方、『蓋を閉めろ派』の意見は
『トイレのドアを開けたときに、便器の中まで見えてしまう、というのは品性の欠落した恥ずべき行為である』
というのが中心と思われる。
圧倒的に女性が多い。
それに対する私の反論は以下のとおりである。
確かに排泄という人間の本能むき出しの機能の具現者である便器の中核をいきなり視野に納めるのは、いささか抵抗のある行為ではあろう。
しかしその小さい心理的代償を以って、便器が清浄な状態であることを確認することは重要なことだと私は思う。
うっかり前使用者の排泄物が残留していた場合、トイレのドアを開けた瞬間に気付く方がまだいい。トイレに入って中から鍵をかけ、さぁ用を足しましょうと蓋を開けたときに他人の獲物と邂逅するときの心理的ダメージたるや、計り知れないものがある。間違いなく戦後最大であり、世界が真っ暗になる。
実際、駅その他の公共のトイレにおいて、洋式便器が5つ並んであるとして、もし1つだけ蓋が閉まっていれば、私は絶対にそのトイレを選ばない。最悪の事態を回避するためである。経済でいうところのマキシミン理論(ミニ・マックスとも言う)に忠実であるのだ。
・・・以上のような反論を持つのだが、それを私が口にすることはない。
私は合理を愛する男である。
大理を取るために小理を捨てるのは、私にとって合理的だ。
理というのは、社会通念、マナーと時として相反するものなのだ。
私は34歳の今になってもネクタイの実使用上の効用はないと信じているが、ネクタイを締めましょう、という会社に出向くのにネクタイを締めるのはやぶさかではない。だりぃけど。
ネクタイを締めることで相手の機嫌を損ねるというリスクを回避できるなら、安いもんじゃないの、という考えである。
容易に変形が効かず、パーソナリティーに影響のある髪型やタトゥーなんかは話が別だが、ネクタイなんてすぐ外せるし。
ホテルの部屋で打ち合わせなどし、たまたまその相手が便器の蓋を下ろさない人間に否定的だった場合、便器の蓋を下ろさないリスクをわざわざ犯す必要はないと思う。失注とかしたら目も当てられない。
また、お目当ての女性がいたとして、デートの際に、バーなどの男女共用のトイレにその女性が私の使用後に入替わりに入り、便器の蓋が開いていることにより不興を買うというリスクも避けるべきであろう。
加えて、蓋を上げて用を足し、蓋を閉めるという挙動の無駄を、合理性のただ一点から論破しようとした場合、突き詰めて考えていくと、『じゃあ、オマエはチャックを常に全開にしてろ』とか、『そもそもパンツ履くな』という反撃に出会う可能性も高い。
上記のように考えていくと、他人の獲物に至近距離までの接敵を許すというリスクも、駅その他の施設ではなく高級施設ならば(期待リスクの軽減により
)耐えられよう。少なくとも自分が蓋をする場合は関係ないからだ。
・・・というような思考プロセスを経て、ようやく私は『便器の蓋閉めます派』に改宗したのである。
・・・が、34年続いた生活習慣を変更するのは容易ではない。
さっきも小用を足しに言ったら、オープンリーチであった。
しょんぼりである。