有限会社Ayleeds社長日記。継接ぎだらけですが、新しいビジネスを求めて世界一周旅行もやってます。

プチ社長日記:『雨の中,傘をさして早稲田に逝ってきた』の話


***創作物ブログだけにアップしようかと思ったけど、ホントの話なのでこちらにもエントリ***

雨の中、傘をさして早稲田に行った。

私は3年間弱、早大生だったのだ。
21歳の時以来、足掛け11年振りの早稲田である。
高田馬場から早稲田通りをとぼとぼ歩いていくと、やはり町並みは変化していて馴染みの店が潰れたりしていた。

何故、早稲田の方に今になって歩を進めたのか判らない。
しかし、導かれるようにキャンパスへと踏み込んだ。

早稲田大学は、私が在学中に総長がK氏からO氏に交代した。
O氏は法学部出身で早大における法学部の地位向上は確実と言われていた。そのせいだろうか、我らが法学部8号館が高層化されて新しくなっている。嘗て8号館の地下はサークル群が不法占拠していて、私の所属していたオールラウンド・サークル(はいはい、軟派な奴ですよ)があったはずだが、見る影もない。
一方、もう一つの所属サークル(法思想学研究会)があった1号館は昔のままだった。

このサークルにはMさんという先輩がいた。
早稲田高校を2年も留年し、私が入学したときに既に大学でも1年留年していた。一言でいうとダメ属性を強くもつ人間だったが、温和な性格もあって人望があった。めっぽう麻雀に強く、私に麻雀を教えてくれたのもこの先輩だった。

いろいろと優しくしてくれたのに、些細なことがきっかけで、彼とは鋭く対立してしまった。今思えば私の若さゆえなのだが、それきり部室には足を運ばなくなった。
程なくして私は大学自体を退学し、もう二度と彼に会うことはなかった。

聞くところによると、今は麻雀プロのBリーグあたりに所属しているらしい。プロとしては喰っていくのは難しいだろう。

その彼が入学式に私を連れて行ってくれた店がある。そう言えば、その日も雨だった。
『ボン・マルシェ』
ハイカラなフランス語の店名とはうって変わって、店内は暗く陰気な店だった。ただ、それがいかにもバンカラな感じを醸し出していて、早稲田では許されていた。

私はMさんに連れてこられて以来、せっせとそこに通った。(私は食べ物に保守的で、基本的に一度気に入ったら同じものを食べる)
何せ暇なもんだから食後も用も無いのにダラダラと居座ったりしていた。
一度、敬虔なキリスト教徒であるクラスメートが何を思ったか私をそこに誘ってくれた記憶がある。
彼はクラスでも成績優秀で、滅多に顔を出さない私とは縁遠い存在の筈だったが、何故か気が合った。
私が宗教に対し敵意を見せることを知ってはいたが、無関心な人間よりは話ができると思っていたからかもしれない。

『ボン・マルシェ』で飯を喰いながら彼は、もし早大に受からなければ、トラックの運転手でもしようと思っていたと語った。皆、それぞれ決意のようなものを持っているのだなと、その時思ったのを何故か覚えている。

『ボン・マルシェ』は老夫婦が経営していた。
普段は目立たないその店が輝いた日が、私の在学中に、一日だけあった。クリントン大統領--元大統領というべきだが当時は大統領だったのだ--が何の気紛れかこの店にやってきたのだ。
テレビも見ず、世間と離れていた私は不覚にもクリントン大統領が来る日を正確に把握していなかった。やたらヘリコプターが飛んでいるので五月蝿く思いながら大隈講堂の前までくると、丁度大統領が出てくるところだった。

世界の覇者を目の当たりにして思った感想は
『(阪神タイガースの)オマリーに似ている』
だけだった。むしろオマリーの方が私は興奮したかもしれない。
彼はその後、SPに囲まれて大隈通り商店街へ向かった。不幸にも私は商店街への道を絶たれたので、8号館へ向かったのだが、ま さか彼が『ボン・マルシェ』を訪れるとは思ってもみなかった。

読者諸兄のご賢察のとおり、私にとって早稲田のシンボルは大隈銅像でも大隈講堂でもなく『ボン・マルシェ』である。
より正確に書くと、私が決まって注文していた『ボンマル・ランチ』(『ボン・マルシェ』は『ボンマル』と学生に呼ばれていた)である。

嘘臭いほど赤いナポリタンとソーセージ、押すと油が染み出るメンチカツ、お皿にのった『ライス』(ご飯とはいわない)に、何故か普通のお椀に入った味噌汁というシュールな組み合わせを何故かナイフとフォークで食べるという伝統。
ナイフとフォークで食べるのが、『定食屋』ではなく『洋食屋』なのだという主張であるということに気付かない愚者にここの飯を食べる資格は無い。

最後に来てから11年経った今、大隈通りを進むと果たして『ボン・マルシェ』はそこにあった。
カーテンが閉められて、『営業中』の赤札がなければ営業しているとは誰も思わない店の扉を開けると、『ボン・マルシェ』はそのままにして我が眼前に存在していたのだった。
嗚呼、なんということ!

老夫婦は、健在だった。私は、『店はもし存在していても、夫婦は引退しているだろう』と思ったのでさらに意外だった。
興奮を抑えて学生に交じってランチを注文する。

私は学生の頃に戻っていた。
学生達が昨日の早慶戦の話をしている。
壁の棚の瓶詰めコカ・コーラもそのままだ(ボトルには『コカ・コーラ』とカタカナで書かれている。一体、何年前のものなのか。。。)

そして無愛想なオヤジの出すランチは、まさに当時のままだった。



食事を終え、私はおばちゃんに600円を払った。

『11年前、僕はここの学生だったんですよ。。。』そう言いかけた時、
『ずいぶんお久しぶりじゃございませんこと?』おばちゃんがそういったのだ。


早稲田大学は、法学部だけで年間800人が入学する。校歌にある『集まり散じて人は変われど』である。
いくら昼飯・晩飯を立て続けに食べる奇特な学生であっても、10年以上前の
男を覚えていられるものだろうか?
普通はできない。
洋食屋を通じて、学生を見続けてきたからこそできる事である。

『お元気で』彼女は最後にそういった。
その科白は、私が発すべきものだった。
この老夫婦が健在である以上、『ボン・マルシェ』の灯が消えることはないのだ。逆に、その日が来れば、私にとっての早稲田での3年弱は霧散してしまうような気がした。

店を出て、雨の中、私は再び大隈講堂に向かった。
様々なことを思い出し、考えながら。

大学を辞めた時のことを考えた。その時の自分の事も。
私はあの頃から成長したのか?むしろ何かを失っただけなのではないのか?

案外、何も変わっていないのかも知れない。


そしてそれは嘆くべきものでもないのかも知れない。
『ボン・マルシェ』を見たら、そう思った。

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コメント

 はじめまして。私は現役の早大生で、水戸黄門を見ながら(4限の終わりがちょうどその頃)あそこでちょくちょく夕食をとります。ナイフとフォークに、みそ汁!w あのミスマッチが大好きです><

 見つけたブログでしたが、あのボンマルシェのことを書いていらしたのでコメントさせていただきました。

  • 2005/07/05 19:55

亀レスすいません!
現役早大生。。。
若い。。。
キングウラヤマシス!!
これからも遊びにきてくださいな。

「ボンマルシェ」で検索してこちらにたどりつきました。
一度行ってみたいと思ってます。
でも、2006年12月中旬で閉店とか、行くなら早くしなくては・・・

  • 早大生を母に持つオバン
  • 2006/11/23 14:09

>2006年12月中旬で閉店とか

な、何だってぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!

コック帽に股引、スパゲティに味噌汁、そしてフォークとナイフ。
学生時代はアンバランスというか、ちぐはぐだなあ、と思っていましたが。
洋食屋としての矜持、ですね。
昨年、ゼミの同期と久しぶりに大隈通り商店街を歩きましたが、
もう、店を見ていたらどこだか分からない・・・。
辛うじて道を見て記憶を呼び覚ましました(苦笑)。

  • トリ公
  • 2020/04/27 10:27
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